白井大師まとめ

令和5年9月1日、朝駆けにて、白井大師札所の、折立の来迎寺(17番)と、神々廻の神宮寺(1番)にある、白井大師開創後まもなくに造られた弘法大師供養塔について、再確認(再撮影)を行いました。これを踏まえて、白井大師について纏めます。

折立来迎寺の弘法大師供養塔

折立来迎寺の弘法大師供養塔正面折立来迎寺の弘法大師供養塔右面
折立来迎寺の弘法大師供養塔
折立来迎寺の弘法大師供養塔背面折立来迎寺の弘法大師供養塔左面
折立来迎寺の弘法大師供養塔
折立来迎寺の弘法大師供養塔台座右面
折立来迎寺の弘法大師供養塔台座右面
折立来迎寺の弘法大師供養塔台座背面
折立来迎寺の弘法大師供養塔台座背面
折立来迎寺の弘法大師供養塔台座左面
折立来迎寺の弘法大師供養塔台座左面
供養塔の正面「供養塔」、右面「明治四十年四月九日建之」、台座正面「白井谷清組合村」、台座右面の上「世話人」、下「神々廻区 白井区 長殿区 法目区 富ヶ谷区 白井新田区 七次区 中木戸区 野口区」、台座左面の上「世話人」、下「所沢区 折立区 中区 名内区 小名内区 河原子区 十余一区 谷田区 清戸区」。(明治40年=1907年) 世話人の所には、当時の白井谷清大師に参加していたと推定される21地区の内18地区が刻まれています。残りの3地区は、冨ヶ沢区、富塚区、今井区です。

神々廻神宮寺の弘法大師供養塔

神々廻神宮寺の弘法大師供養塔正面神々廻神宮寺の弘法大師供養塔右面
神々廻神宮寺の弘法大師供養塔
神々廻神宮寺の弘法大師供養塔背面神々廻神宮寺の弘法大師供養塔左面
神々廻神宮寺の弘法大師供養塔
神々廻神宮寺の弘法大師供養塔台座右面
神々廻神宮寺の弘法大師供養塔台座右面
神々廻神宮寺の弘法大師供養塔台座正面
神々廻神宮寺の弘法大師供養塔台座正面
供養塔の正面「供養塔」、右面「明治四十二年九月廿一日建之」、台座正面「白井谷清組合村」、台座右面「世話人」。こちらは、来迎寺の供養塔よりも2年半後のもので、世話人の具体的な事は書かれていません。

白井大師について

白井大師は、明治37年に、当時の白井村と谷清村で構成された白井谷清組合村の、(おそらく)21地区全てが参加して開創されたものです。当時の谷清村は、谷田、清戸、十余一の3地区から成り、一方、当時の白井村は、現在の白井市から旧谷清村と平塚地区( 当時は永治村に所属 )を除いた地域になります。
その後、大正2年(1913年)に谷清村が永治村に編入、白井谷清組合村は解消して白井村が単独村となり、高花2022によれば、昭和の戦前期に、旧谷清村3地区が白井大師から離脱しました。
さらにその後、昭和29年(1954年)に永治村が分割されて、西半分、つまり旧谷清村と平塚地区が白井村に編入されましたが、これらの地区が白井大師に(再)加入する事はありませんでした。
時代は流れて、平成17年(2005年)を以て、白井大師は休止、講組織は解散しました。

白井大師の番付札所について

ここでは、次の参考資料から抽出した、白井大師の番付札所について纏めます。
Ref.

  • 高花宏行、「白井組合大師札所寺院部落」の紹介 ー白井大師の札所番号ー、白井市郷土史の会機関誌『たいわ』No.36号、2021
  • 高花宏行、白井市組合大師旧蔵資料から見た白井大師の概要、白井市郷土史の会機関誌『たいわ』No.37号、2022

この中で、高花2021にて写真で紹介されている梶原明氏作成資料の記述を最優先に、一覧にします。

注釈:(1).梶原氏の資料では、15番と21番について一部混同している部分があり、高花氏の推定を第一候補とする。(2).梶原氏の資料のとおりに読めば、白井大師7番=東葛印旛大師55番西輪寺太子堂であるが、高花氏は白井大師7番=大下太子堂とする。(3).梶原氏の資料では、13番は富塚の釈迦堂( どこだろ? )となっていて、これを中下大師堂とする高花氏の推定に従う。(4).11番と17番は、高花2022では逆になっている。
なお、ここでの白井大師掛所とは、私の仮称でして、番付札所ではないが、白井大師の順路に組み込まれていたもので、上記以外にも数ヶ所ありました。

考察

白井大師は、印西大師の小廻大師 and/or 21ヶ所大師として開創されたとされるが、実際に出来上がったものは、旧白井村を阿波国23ヶ所(1-23番)の写し、旧谷清村を室戸三山(24-26番)の写しとしたものである。
この中で、既存の大師廻りの番付札所と、白井大師の番付札所で、番号が一致したのは、谷田の西福寺(印西大師26番、白井大師26番)のみである。それ以外で、白井大師の番号と一致した御詠歌額を大師堂に掲げているのが確認できたのは、神々廻の神宮寺(印西大師27番、白井大師1番)と、河原子の大師堂(白井大師19番)のみ。
ここから先は推測であるが、おそらくは、開創時点で白井谷清組合村内にあった、既存の大師廻りの番付札所と印西大師の掛所は全て、白井大師の番付札所としたのではないだろうか。そして、吉橋組大師64番と同65番は、この時点で光明寺に二つともあったので、白井大師としては1ヶ所とし、一方、東葛印旛大師24番と同55番は、現在は二つとも西輪寺境内にあるが、当時は55番が境外にあったので、白井大師としても2ヶ所とした、また、東葛印旛大師37番は、現在は同45番と同じく稲荷神社境内にあるが、当時はまだ(現 柏市)松ヶ崎にあったので、白井大師では対象外だったのでは。まあ、単に参加者の都合でそうなってしまっただけかもですし、情報不足なのにあれこれ考えるのは妄想ですね。