(令和4年9月3日その8)
東葛印旛大師巡拝、金山の金蔵院円林寺(5番&35番)&鳥見神社の次は、小名内(名内)の梶原大師堂(掛所)、続けて、稲荷神社(37番&45番)に参ります。
円林寺の東にある信号交差点を南東方向に戻り、反対側の白井市富塚(の北端)の交差点は直進、そこからの上り坂の途中、この三叉路で左折します。その先、道が右に曲がった直後の三叉路は左(北)に進み、後は緩い下り坂を進んで行くと、左手に大師堂が現れます。
梶原大師堂
東葛印旛大師掛所。
白井大師掛所。この大師堂は、梶原さんが建て直したものですが、この梶原さんは、明治の終わりごろに下総四郡大師の再興発起人となった梶原石五郎氏の関係者だと、そう思われる体験があります。
さて、梶原大師堂から北、すぐの所に稲荷神社の鳥居が見えます。
小名内の稲荷神社
東葛印旛大師37番&45番。
白井大師16番。
千葉県の宗教法人名簿には記載がありません。鳥居から参道真直ぐに社殿、参道の右に石塔石仏、境内左(南)には道路(東)側から順に45番大師堂、45番標識塔、37番大師堂、37番標識塔と並んでいます。
社殿
45番大師堂&37番大師堂
台座には「安政六未年九月」とあります。(安政6年=1859年)
45番標識塔
45番標識塔は、45番大師堂の右前にあります。標識塔の正面に「豫州岩〓寺」「第四十五番」とあるような気がします。左面は「明治」のみ読めました。
37番標識塔
37番標識塔は、37番大師堂の右後ろにあります。標識塔の正面「准四圀八十八箇所土佐仁井田五社三十七番」とあります。
さて、東葛印旛大師の45番札所は、文政期から小名内地区にありましたが、文政期には不動堂、明治期には大師堂と呼ばれていました。一方、37番札所は、文政期には松ヶ崎村の湯殿山権現に、明治中期には松ヶ崎の覚王寺に、昭和初期には名内橋の辺りにあったようです。
石塔石仏
写真の範囲だと全部庚申塔ですね。この庚申塔の右「奉造立庚申供養」、左「宝〓〓寅年三月吉日 同行十二人」とあります。葉っぱで元号が隠れてますが、候補は、宝永七寅=宝永7年=1710年、または、宝暦八寅=宝暦8年=1758年、となります。
帰宅
カメラの電池が切れたので、今日はこれまでとします。本日は、東葛印旛大師の札所11ヶ所、鯖大師1ヶ所、掛所4ヶ所、下総三十三観音の札所1ヶ所に参りました。
更新履歴
2022年09月22日18時30分、初版公開
2023年07月21日17時25分頃、「白井大師掛所。」、「白井大師16番。」追記