(令和5年7月6日その5)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、中木戸(白井市根)の諏訪神社に寄り道の次は、野口の愛宕神社に寄り道した後、野口(白井市木)の地蔵堂(白井大師5番)に参ります。
七次第二公園の南側歩道を東に進み、歩道から左に分岐して上って、左手に愛宕神社の南西角となりました。神社の入口は南東角東側ですので、写真前方へもう少し進んでから、左に切り返します。
野口の愛宕神社
愛宕神社、白井市野口80番5。(千葉県の宗教法人名簿より)
入口から階段を上って鳥居、鳥居の先参道真っ直ぐに本殿、本殿の左前に「愛宕神社の歴史」説明板、参道左に摂末社、鳥居の右に石塔石仏群があります。なお、大師堂は見当たりません。
鳥居
摂末社
説明板
これに拠れば、所在地は印旛郡白井町木82番地、慶長元年(1596年)に勘請(創建)で野口村の村社になった、ご祭神は迦具土神(火産霊神)。
所在地が前述の宗教法人名簿記載と違いますが、説明板のは(白井町時代の)地番で、宗教法人名簿のは現在の住居表示によるものです。但し、住宅地の造成により移転したとの情報もあり、それが、82番地と80番5の違いとなっているのかもしれません。
因みに、まず、明治7年(1874年)、当時の野口村と北の所沢村が合併して木村が成立、木村は明治22年に他の村々と合併して白井村木に、昭和39年(1964年)には町制施行で白井町木になりました。(平成13年(2001年)に市制施行で白井市木に。) 一方、平成期になってから、七次第二公園や愛宕神社の周辺の住宅街に住居表示が実施されて、野口の名が採用されています。明治初めまでの野口村の範囲と、現在の白井市野口の範囲は一致しません。
本殿
石塔石仏群
全部かどうかは覚えていないのですが、ほぼ庚申塔です。この庚申塔は、右「青面金剛像」、左「享保十四己酉天十月吉日」、右下「野口村」、左下「所沢村」とあります。(享保14年=1729年)こちらは、中央最上部に種字、右「青面金剛尊 野口村」、左「宝暦三酉天十一月吉日」とあります。(宝暦3年=1753年)こちらは、左面「〓庚申供養塔」「〓口村」とあります。こちらは、正面左「明和元甲申十一月吉日」とあります。(明和元年=1764年)こちらは、中央最上部に種字、右外側「法身恒寂妙清浄無二相」、左「爲度衆生故示現種々形」、右内側「宝永六己丑年二月」とあります。(宝永6年=1709年)
それでは、次へ参ります。神社の入口を出て、そのまま東へ進み、小さな公園(、その実は送電線下空き地)も抜けます。その先で、道路に出て右(東)に、雑木林の坂を下ります。そこで、道が左に少し折れて、右に墓地の入口がある地点、墓地の入口に、ちょっと変わった石塔が2基あります。
野口地蔵堂南の墓地入口石塔
右の石塔は、中央「奉納經海定法師」、右「天保十一子四月六日」、左「尾張名古谷俗名伸七」、左の石塔は、中央「信蓮社〓誉〓順〓〓」、左右「延享三寅 十月四日」とあります。(天保11年=1840年、延享3年=1746年) なんとなくですが、特に右の石塔は、この地で客死した方の供養塔(墓石)のような気がします。
さて、この石塔の前を道なり左で過ぎると、左手に地蔵堂が現れます。
野口(白井市木)の地蔵堂
千葉県の宗教法人名簿には記載がありません。
白井大師5番。
この辺りは、旧の野口村、今は白井市木になります。
道路側右に石塔群、敷地の左側に石塔石仏群、敷地奥に地蔵堂らしき建物、その左前に大師堂があります。
地蔵堂
この建物は、集会所として使用され(る/た)ようで、集会所の看板の痕が残っています。
大師堂
印西大師の明治初期の史料には、野口の、ちそうとう(地蔵堂)が掛所と記されています。
北東角庚申塔
道路側右端、敷地の北東角の庚申塔ですが、正面の中央「青面金剛王」、その左右「文化三寅年 十月吉日」、右面の文字は読み辛いが、左面「行とくみち」、とあり、道標を兼ねていたようです。(文化3年=1806年)それでは、次へ参りましょう。地蔵堂前の道路に出て左に進み、すぐの三叉路も左折(北行)します。
次回は、所沢(白井市木)の鷲神社&所沢(白井市木)の薬師堂(白井大師9番)
次回は、所沢(白井市木)の鷲神社に寄り道した後、所沢(白井市木)の薬師堂(白井大師9番)に参ります。