(令和5年8月26日その2)
千葉寺十善講八十八ヶ所巡拝、千葉神社(元1番)の次は、院内の宝幢院(1番&2番)に参った後、大日寺(3番)の移転前所在地を訪れます。
千葉神社の東側入口から国道126号を左(北)に出ます。千葉神社前交差点は直進、次の院内交差点、ここは千葉県道40号の分岐点ですが、斜め左の県道に入ります。すぐの三叉路、左に宝幢院の駐車場があり、その左奥はおそらく宝幢院のご住職のお宅です。この三叉路を左に入ると、右手に宝幢院が現れます。
院内の宝幢院
真言宗豊山派、宝幢院、千葉市中央区院内1丁目3番8号。(千葉県の宗教法人名簿より)
千葉寺十善講八十八ヶ所1番。(妙見寺)
千葉寺十善講八十八ヶ所2番。(宝幢院)
門から短い参道の先に本堂、門入って左に大師堂、門入って右に説明板、説明板の奥に妙見寺尊光院( 千葉神社の前身 )住職の墓碑があります。山号は円満山(圓満山)。
本堂
大師堂
もともと妙見寺が1番で、宝幢院が2番でしたが、妙見寺が千葉神社になって仏教寺院としては廃寺になった後、1番の機能が宝幢院に移りました。
説明板
説明板は、参道側が宝幢院略縁起、その裏は北斗山金剛授寺[妙見寺]尊光院住職の墓碑、となっています。これに拠れば、本尊は如意輪観世音菩薩、創建は保延3年(1137年)に妙見宮別当寺の北斗山金剛授寺尊光院三世宥覚( 千葉介常重[千葉常重 - Wikipedia]の子 )が法東院として建立、一時衰退も尊光院十四世覚胤( 千葉介昌胤[千葉昌胤 - Wikipedia]の子 )が再興、元亀2年(1571年)に宝幢院と改称、徳川期は妙見寺尊光院の末寺で尊光院住職の隠居寺・回向所となる、明治の神仏分離期に妙見宮が千葉神社になって尊光院が廃寺になると千葉寺の末寺になった。
法東院と宝幢院は、読みが同じなのかな?こちら側に拠れば、長保2年(1000年)に覚算( 平忠常[平忠常 - Wikipedia]の子 )が尊光院を創建、大治元年(1126年)に千葉介常重が妙見尊を勘請して尊光院を別当とした、この説明板側には覚胤以下の尊光院住職の墓碑がある。
尊光院住職墓碑
さて、上の写真は説明板側の古い墓ですが、反対側の大師堂左にも古い墓があります。立て掛けてある卒塔婆には「當山代々先師尊霊」とあります。
それでは、次へ参ります。
門を出て右(西)に進み、突き当たりを左折すると、これは前回の記事分で通った道になります。再び通町公園に到達すると、今度は右手に注目です。この写真は公園左側に少し入ってから右(西)を見たものです。写真中央、道の西側に説明板があります。
千葉市中央区中央の大日寺(3番)跡
千葉寺十善講八十八ヶ所3番旧所在地。これに拠れば、住所は千葉市中央区中央1丁目4、ここは阿毘廬山密乗院大日寺の旧所在地、大日寺は昭和20年(1945年)空襲で焼失後に稲毛区轟町へ移転した。鎌倉大草紙によれば、千葉頼胤[千葉頼胤 - Wikipedia]が馬橋に大日寺を建立、開山は良観房忍性[忍性 - Wikipedia]、頼胤の孫の千葉貞胤[千葉貞胤 - Wikipedia]が千葉に大日寺を移した、康正元年(1455年)に滅んだ千葉胤直[千葉胤直 - Wikipedia]の石造五輪塔が造られた。
古い地図を見ると、大日寺は千葉神社の南側、通町公園の東半分の所にあったように見えます。
次回は、来迎寺(番外)旧地&光明寺(4番)
次回は、番外の来迎寺の移転前所在地を訪れた後、光明寺(4番)に参ります。