(令和5年6月5日その4)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、続・平賀の来福寺(66番)&平賀古井戸の大師堂の次は、平賀の仁王尊に参ります。
平賀古井戸の大師堂から西に出て、突き当り三叉路を右(北)に、その先の三叉路で右折では無く左にカーブします。しばらく進んだ後、突き当たり三叉路の手前の三叉路を、ここを右折(北行)します。道が右に曲がった直後の三叉路、これは左折、しばらく進んだ後の交差点、斜め左が、平賀の仁王尊になります。
平賀の仁王尊
千葉県の宗教法人名簿には記載がありません。入口から参道真っ直ぐに仁王門、その先真っ直ぐに行くと一段高い所に大日堂、仁王門の手前右に大師堂、さらに手前右に手水舎があります。本来は、大日(如来)堂が主役のはずですが、仁王門が仁王堂と化していて、仁王尊が主尊のようになっています。なお、右の離れたところに、台集会所があります。
境内仁王前
手水鉢
手水鉢には「嘉永四辛亥年 六月〓〓日」(〓〓は吉辰?)とあります。(嘉永4年=1851年)
大師堂
印西大師の明治初期の史料には、平賀の、にわうとう(仁王堂)が掛所と記されています。
仁王門・仁王堂
普通の仁王門とは違い、仁王像は見えません。
大日堂
大日堂横の石仏
大日堂の前、左右に石仏が立っています。左の石仏は、右「奉造立愛染明王〓〓佛 供養之衆…」、左「〓時延宝二甲〓天十月〓日 導師來福寺」とあり、愛染明王です。(延宝2年=1674年) 像の余白の下部には仮名あるいは崩した文字がぎっしり書かれています。供養衆の人達の名前でしょうか。右の石仏は、右「奉塹立〓火勤行 念佛供養輩同行廿人 現來豊樂所 本行衆本〓」、左「〓宝…二月八日 導師來福寺 供養伴加人」などとあり、おそらく不動明王です。こちらの余白下部にも文字がぎっしりです。
大日堂下の石塔群
大日堂の階段の下、左に石塔群があります。この中の右端、参道寄りの石塔は、正面の中央は種字2字に「奉石燈一蓮詫生」、その左右下部「當村念佛 講中成就〓」、左面の右「明和四丁亥正月十五日 」、右面「別當印光山來福寺住〓〓 廿六夜心願寄進」とあります。(明和4年=1767年)左の石塔は、字が細くて読みづらいのですが、正面中央は梵字が6文字に「〓火勤行〓念佛之〓〓」、左面中央は梵字6文字に「同證佛果衆代〓念佛衆」とあり、それらの左右中部下部にも仮名あるいは崩し文字が沢山あります。梵字6文字は、観音菩薩の六字真言とは違って見えます。「〓火勤行」の文言からして、大日堂右の不動明王と関係しそうです。
こうしてみると、平賀の来福寺(66番)の名が何度も出てきますので、(当時は)来福寺の境外堂なのかもしれません。そういえば、来福寺には仁王さんは見当たらなかったような。
台集会所
台というのは、地理院地図にも記載がありますので、この辺りの小字でしょう。
それでは、次の観音院(69番)に参ります。来た道を戻り、この記事最初の写真の三叉路まで戻って右折します。すぐの三叉路、ここを左折します。なお、この三叉路を右折(北行)すると、次の三叉路の左が平賀の宗像神社になります。
次回は、平賀の観音院(69番)&平賀の宗像神社
次回は、平賀の観音院(69番)に参った後、平賀の宗像神社に寄り道します。