(令和5年6月29日その4)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、吉田の万福寺(72番)の次は、松崎村ぐるみ農業集会所の大師堂に参ります。
万福寺の山門を出て右(南)に進み、吉田向山共同墓地の角の十字路を右折して、坂を下ります。下った先の十字路、ここを直進します。この先は細い道のはずが、途中から道路工事をやってます。坂下の十字路から約0.8km強の地点、ここで左に進むのですが、将来はどうなりますか。その先で台地にぶつかって右に曲がった後の三叉路、ここで左折して坂を上ります。台地の上に出たら、次の三叉路、ここを左折、次の三叉路は、合流するように左へ行くと、次の三叉路の右向こう側に、集会所と大師堂があります。
松崎村ぐるみ農業集会所
入口から左の一番大きな建物が集会所、集会所と向かい合うのが大師堂、敷地の道路沿いに石塔石仏群が並びます。
集会所看板
大師堂
印西大師の明治初期の史料には、松崎の南の方(吉田寄り)に、みやうけん寺(明源寺)という掛所があったと記されています。ここには石塔石仏に古い墓石も並んでいますし、古い地図に拠れば、この近辺(松崎南部)で寺院らしきものはこの地点だけなので、ここが明源寺の跡なのかもしれません。
石塔石仏群
入口の右、大師堂の東側の石塔石仏群では、まず、入口すぐ右の如来像、この如来像の左「寛文三癸卯年〓月〓日松〓〓別當多聞院敬白」、右は冒頭「念佛講」とあります。(寛文3年=1663年)
次に、右端から2番目の地蔵像、こちらは、右「奉造立地藏大菩薩諸願」、左「享保五庚子年三月三日 成就之所」、台座「松〓童女」とあって、花見堂地蔵の一種かもしれません。(享保5年=1720年)
そして入口の左、集会所の東側の石塔石仏群では、写真の右端の石仏は、台座に「三郷女人講」とあります。三郷は、地理院地図にも記載があるので、この辺りの小字でしょう。
こちら側の右から5番目の石仏、こちらは、右「十九夜念佛」、左「寛政八辰十一月吉日」とあります。(寛政8年=1796年)
最後に、左端の石仏、こちらは、右「建立十九夜念佛」、左「天和三癸亥天八月十九日」とあります。(天和3年=1683年)
それでは、次へ参ります。集会所を出て左(北)に少し戻り、股間に新旧の地蔵像のある二股三叉路は左側直進します。以後も道なり直進で、集会所から約0.35kmの三叉路、この写真の右から来ていて、写真左に直進すれば、松崎の多聞院(50番&67番)に至るという状況です。右手に成田山の不動像がありますが、その不動像の左側の道の先に、松崎の火皇子神社があります。三叉路を右折して寄り道します。
次回は、松崎の火皇子神社
次回は、松崎の火皇子神社に寄り道します。