(令和6年4月2日その3)
千葉寺十善講八十八ヶ所巡拝、臼井台の実蔵院(59番)の次は、畔田(あぜた)の正光寺(60番)に参ります。なお、正光寺は六崎組十善講八十八ヶ所の45番でもあります。六崎組について触れざるを得ません。
実蔵院から旧佐倉街道に出て南へ進み、だんだん東寄りに向きを変えて、国道296号の手繰川に架かる手繰橋東詰の信号交差点に出ました。この交差点では、横断歩道を渡って、手繰川の右岸を上流(南)方向に、川を右に見ながら進みます。次の橋( 大畑橋 )の所で、橋を通る道に出て左へ、谷津田の東側の十字路、ここは右折で、以後は手繰川谷津田の東縁を南に進みます。京成本線は踏切で渡り、途中の、印旛取水場・柏井浄水場間を結ぶ水道道は、横断に苦労しましたが、どんどん進んで、次の川土橋が見えたなら、その川土橋を渡るべく、十字路を右折、橋を渡ってから左にカーブしつつ坂を上ります。だいぶ上ると、右手に「正光寺薬師堂参道入口」の看板が見えてきます。
畔田の正光寺
真言宗豊山派、正光寺、佐倉市畔田400番地の1。(千葉県の宗教法人名簿より)
千葉寺十善講八十八ヶ所60番。
六崎組十善講八十八ヶ所45番。
ここから参道入って、少し先の正面に本堂、本堂と相対して大師堂、本堂の左に正光寺薬師堂記念碑、本堂の右を進むと薬師堂があります。
参道
本堂
扁額は「正光寺」、左から右に書いてある。
大師堂
大師堂の左半分は45番、右半分は60番です。45番の台座左側「〓三〓 十一月吉〓」。そして紙が、大師像、「一番」、「下総國六崎組」、「鏡寳寺」と書かれた紙がお供えしてあります。左側の大師像は、六崎組十善講八十八ヶ所の45番になります。なお、古い記録には畔田の「ごくらく寺」と記されています。こちら60番は千葉寺十善講八十八ヶ所の60番ですが、六崎組の紙もお供えしてあります。六崎組の番外札所扱いなのかもしれません。
正光寺薬師堂記念碑
これに拠れば、正光寺は大聖寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来、貞治年間(1362年-1368年)(畔田村)坊谷津に建立、天保4年(1833年)畔田村台口へ移転。薬師堂は本尊薬師如来、延文3年(1358年)建立。両者とも昭和30年代に災害により崩壊し、昭和60年代に順次再建。
本堂前境内
たぶん自衛隊機。それでは、薬師堂へ参ります。本堂の右手へ進むと、道がありますので、そこを進むと、前方に建物が見えてきます。
畔田正光寺薬師堂
六崎組十善講の古い記録には、畔田正光寺の「日かげやくし」が、かけ番と記されています。扁額は「薬師堂」、こちらも左から右に書いてある。
薬師堂の前には、谷から上がってくる参道がありました。薬師堂の左前に、木造薬師如来立像の説明板です。佐倉市指定の有形文化財です。
さて、薬師堂の左右に墓石などが並んでいますが、この中から、こちらの石塔は、中央に種字と「奉納大日経住心品日本廻國供養〓上…」、右「天下泰平 下総國印旛郡畔田邑 沙門宥照」、左「 國家豊饒 時正徳三癸巳十一月吉日 同行保心」で、六十六部供養塔だと思います。(正徳3年=1713年) しかし、法華経ではなく、大日経住心品を納経するものは、初めて見ました。
もう1基、こちらは、正面「當寺中興開山法印光恵不生位」、右面「生國下総國印旛郡宇那谷村出生 明和二乙酉天十月吉日 沙門芳〓」で、正光寺の中興開山である法印光恵のお墓です。それが明和2年(1765年)に建てられたということ、法印光恵の生まれたのは正光寺の本寺である大聖寺(千葉寺十善講44番)の所在地宇那谷村ということに注目です。
次回は、生谷の専栄寺(千61番&六61番)
次回は、生谷の専栄寺に参ります。来た道を戻って、川土橋を渡り返します。