(令和6年3月27日その5)
千葉寺十善講八十八ヶ所巡拝、佐倉市の先崎地蔵尊&八千代市下高野の福蔵院(56番&番外)の次は、佐倉市青菅(あおすげ)の称念寺(番外)、続けて、青菅の正福寺(番外)に参ります。
福蔵院を出て左(東)へ道を戻り、八千代市下高野と佐倉市先崎の境、先崎地蔵尊前の丁字路、ここを右折、田圃の中の橋( 子ノ橋 )を渡って、その先の三叉路を左折して、坂を上ります。坂上の突き当たり丁字路の手前にて、左手更地の向こうに称念寺の本堂や山門の屋根が見えます。丁字路左折してすぐ左が称念寺参道です。
青菅の称念寺
浄土宗、称念寺、佐倉市青菅98番地1。(千葉県の宗教法人名簿より)
千葉寺十善講八十八ヶ所番外。参道を進んで山門、山門前で車道は左にずれています。山門入って参道右に改築記念碑、その少し奥に大師堂、参道奥少し左に本堂、本堂の裏手に古い作りのお堂があります。
山門
扁額は読めませんが、改築記念碑の記述からして「本然山」でしょう。
本堂
扁額は「称念寺」。
大師堂
写真の右端に改築記念碑が半分写っています。
改築記念碑
碑の最上部に「浄土宗本然山称念寺」、碑文のタイトルは「改築記念碑」。これに拠れば、天正5丁丑年(1577年)創草、江戸時代は青菅村領主川口氏の祈願寺になったが、元禄11年(1698年)川口氏転封後寺門衰微。昭和21年(1946年)農地解放で経済力が弱る。昭和46年に地域開発により山林を譲渡して新堂于建設、翌47年落慶。( 旗本川口氏の青菅領有は、川口宗勝 - Wikipedia から、川口宗恒 - Wikipedia までの4代92年 )
境内
奥のお堂
それでは、次へ参ります。参道を戻って道路に出て左(東)へ、少し進んでの十字路、左折です。なお、この十字路はこの後も登場します。
左折した後は、道が右にカーブして、田圃の側に出ようかというところで、右手に正福寺参道があります。
青菅の正福寺
真言宗豊山派、正福寺、佐倉市青菅131番地の1。(千葉県の宗教法人名簿より)
千葉寺十善講八十八ヶ所番外。(84番御詠歌を掲示)参道を進んで、左に石塔石仏群と常夜灯、奥に本堂、本堂の左前に本堂庫裡改築記念碑、本堂の左に大師堂があります。
本堂
本堂庫裡改築記念碑
これに拠れば、山号は青菅山。本堂庫裡改築時に大師堂と天満宮も改築したようだ。
大師堂
御詠歌額は、冒頭「准四國八十〓ヶ所霊場 寫第八十四番讃州屋島寺 青菅山正〓寺」、そして84番御詠歌。
祠( 天満宮? )
大師堂の背後に祠があります。改築記念碑の記述と併せて考えると、天満宮でしょうか。
石塔石仏群
この中の左端から、左の写真の左( 全体でも左端 )の石仏は、左「天保十一子年二月」、その右の石仏は、右「奉造立十九夜講中二世安樂〓」、左「享保十四己酉年 十月吉祥日 青菅村」。(天保11年=1840年、享保14年=1729年)
右の写真の左( 全体で左から3番目 )の石仏は、右「奉造立十九夜講中青菅村」、左「宝暦二申二月日」、その右の石仏は、右「奉造立十九夜講中」、左「安永二癸巳二月日」。(宝暦2年=1752年、安永2年=1773年)こちらは、影の部分がなかなか読めないが、左の写真の左( 全体で左から5番目 )の石仏は、右「夜講中」、左「二月吉日」、その右の石仏は、左「十九夜講中青〓邑」。
右の写真の左( 全体で左から7番目 )の石仏は、中央最上部に種字、右「十九夜」、左「年二月〓」、その右の石仏は、中央最上部に種字、左「奉造立十九夜塔」、右「慶応三丁卯稔〓月吉日」。(慶応3年=1867年)
常夜灯
常夜灯は、本来は参道の左右1基ずつでしょうが、ここでは参道左、石塔石仏群の前に2基あります。両方ともに「万延元庚申十一月」とあります。(万延元年=1860年)
次回は、志津小学校青菅分校跡
次回は、井野の千手院(57番)への道中ですが、私の趣味で青菅の分校跡に寄り道します。来た道を戻って、先程の十字路を左折(東行)します。