(令和6年3月27日その4)
千葉寺十善講八十八ヶ所巡拝、佐倉市先崎の雲祥寺(55番)の次は、先崎地蔵尊に寄り道した後、八千代市下高野(しもこうや)の福蔵院(56番&番外)に参ります。
雲祥寺・先崎会館を出て右(東)へ、長屋門前を通過して、突き当りの三叉路、実は四叉路、右に曲がります。続く三叉路、これも右、後は道なりで緩く右にカーブして、西に進みます。そして、佐倉市先崎と八千代市下高野の境に差し掛かる丁字路手前、右手の墓地の先に先崎地蔵尊があります。
先崎地蔵尊
狭い境内奥に地蔵堂、道路際右(西)に庚申塔群です。地蔵尊(像)1躯は、佐倉市指定の有形民俗文化財です。
そして庚申塔群ですが、右端から、一番右の庚申塔は、左面「〓保十八癸丑年十月」、その左の庚申塔は、上部が折れて後方に倒れていますが、正面右「正徳二」/「年 庚申講中」、正面左「十月〓〓」とあるようです。(〓保18癸丑年=享保18年=1733年、正徳2年=1712年)
庚申塔群の中ほどは、写真右の庚申塔は正面中央「庚申」、その左右「正徳二壬辰天 十一月六日」、その左の庚申塔は右面「寛政〓〓〓申十月」。(寛政申年=寛政12庚申年=1800年)
さて、そのまま道を西に進みますと、下高野に入ってほどなく、右手に福蔵院が現れます。
下高野の福蔵院
真言宗豊山派、福蔵院、八千代市下高野36番地。(千葉県の宗教法人名簿より)
千葉寺十善講八十八ヶ所56番。
千葉寺十善講八十八ヶ所番外。
東側から来た場合、道の右(北)側に、まず墓地のブロック、その中央にお堂あり、次には道路側に八千代市第10分団2部器具置場、奥にスペースで、その奥に大師堂2棟、墓地側に石塔石仏群、最後に福蔵院兼下高野公会堂の建物が並んでいます。
東の墓地
八千代市第10分団2部器具置場
福蔵院兼下高野公会堂
この建物の玄関右の外壁に、「下高野の天明三年の百姓一揆(西暦一七八三年)」と題する説明板があります。
大師堂2棟
この内、左側が番外で、右側が56番らしいようです。
番外大師堂
こちらには御詠歌額が2枚掛かっています。手前の御詠歌額は、「新四国五拾六番 下高野 福蔵院」、56番の御詠歌、「明治廿九丙申三月十七日 新〓堂」だと思うのですが、達筆すぎて確証ありません。(明治29年=1896年)奥の御詠歌額は、番外のものですね。台座には「昭和二年三月 四國順拝紀念」とあります。(昭和2年=1927年)
56番大師堂
石塔石仏群
主力は子安塔ですが、最新の子安塔の後ろにある古いものから、上2枚の写真で、右の石仏の右面「天保十亥十一月吉日」、その左隣の石仏は、右面「文久四甲子二月吉日」、正面「十九夜」、台座「女人講中」、さらに左の石仏は、右面「安政二卯二月十九日」、正面「十九〓」。(天保10年=1839年、文久4年=1864年は2月20日改元、安政2年=1855年)この写真、中央の石仏は、正面の右「十九夜」、左「文政十亥十一月十九日」、その左の石仏は右面「文政三辰十一月吉」。(文政10年=1827年)この写真、右の石仏は、正面の右「奉造立十九夜講中」、左「安永七戌十月吉日」、中央の石仏は、正面の中央は種字に「十九夜講」、右「同行十八人下高野村」、左「宝暦六丙子歳十月十九日」、左の石仏は、正面の右「下高野村十九夜講同行十八人」、左「…未十月吉日」。(安永7年=1778年、宝暦6年=1756年) と、古いものは十九夜塔になります。こちらの庚申塔、正面「庚申塔」、左面「明〓三十九年三月吉日建」、背面「右 米本」、右面「東 先〓き 青〓け」(先崎と青菅か)で、道標を兼ねていたようです。(明〓39年=明治39年)
墓地のお堂
最後に、福蔵院を西側から。
次回は、青菅の称念寺(番外)&青菅の正福寺(番外)
次回は、青菅の称念寺、続けて、青菅の正福寺に参ります。来た道を戻り、先崎地蔵尊の丁字路で右折します。