(令和6年4月2日その4)
千葉寺十善講八十八ヶ所巡拝、六崎組十善講八十八ヶ所巡拝、畔田の正光寺(千60番&六45番)の次は、生谷(おぶかい)の専栄寺(千61番&六61番)に参りまして、その後で隣接する弁天様に寄り道します。
正光寺から、来た道を戻って手繰川の川土橋を渡り、次の十字路、左折(北行)、そしてこの四叉路、来たときは左の谷津田東縁の道からでしたが、直進( わずかに右寄り )して坂を上ります。台地の上に出た後のこの突き当り丁字路、左へ、この写真左端に写っている祠に参ろうとしますが、その直前、道の反対側の石塔が、六十六部供養塔であることに気が付きました。
生谷の三夜社と六十六部供養塔
まず六十六部供養塔です。中央「大乗妙典六十六部日本回國」、その右「下総國印旛郡生谷村念道亮空」、その左「八癸卯年三月吉祥日」。(n8癸卯年=享保8年=1723年)
続いて祠ですが、「三夜社」とありました。三夜社とは、たぶん二十三夜から来ているのでしょう。
そのまま道を北に進みますと、左にお堂、右に階段が見えてきます。左手前のお堂は弁天様、その奥に見えるのが専栄寺、右の階段は高産霊神社の参道です。先ず専栄寺に参ります。
生谷の専栄寺
真言宗豊山派、専栄寺、佐倉市生谷498番地の2。(千葉県の宗教法人名簿より)
千葉寺十善講八十八ヶ所61番。
六崎組十善講八十八ヶ所61番。
入口石柱門の左に61番標識塔、入口の左に石塔石仏群、入口入って参道真っ直ぐに本堂、その途中左に宝篋印塔、61番大師堂、専栄寺本堂庫裡新築記念碑、観音堂があります。
61番標識塔
この石塔の道路側に「新四國六十一番 南無大師遍照金剛 生谷山」とあります。
石塔石仏群
この中から、中列右端( 写真の手前 )の石仏は、左「文化五辰三月十九日」、後列右端( 写真の右後ろ )の石仏は、左「弘化四未〓」。(文化5年=1808年、弘化4年=1847年)後列右から3番目の石仏は、右「文政十亥二月吉日」、左「當村女人講中」。(文政10年=1827年)この石仏は、右「嘉永六三月日」、左「生谷村」。(嘉永6年=1853年)
境内
宝篋印塔
専栄寺本堂庫裡新築記念碑
これに拠れば、山号は生谷山、永禄年間の創建、享保、明治と建て替えられた。臼井生谷地区区画整理の剰余金、専栄寺所有山林処分金などにより平成3年(1991年)本堂庫裡新築。
観音堂
扁額は、読めん。右に「観」の痕跡がありそう。堂内の幕に「専栄寺 観音堂新築記念」とあるので、観音堂と判断しました。
61番大師堂
本堂
扁額は「専栄寺」、字体は新字体。
本堂の裏手に何かあるかと行ってみましたが、何もなかった。しかし、本堂裏にタヌキですわ。タヌキって、結構動かずに睨むんですね。
それでは、弁天様に戻ります。
生谷の弁天様
千葉県の宗教法人名簿には記載がありません。
入口に常夜灯、その右に弁天様由来記、参道は短くて、すぐ右の池にお堂というかお社があります。入口左の電柱には「ぽっくり弁天」の看板。
常夜灯
常夜灯の正面「奉納」、左常夜灯の右面「安政三丙年」、右常夜灯の左面「辰九月吉日」。(安政3丙辰年=1856年)
弁天様由来記
これに拠れば、寛文年間(1661年頃)、生谷(字)松山1番地(、現在の王子台6丁目)に創建。臼井生谷土地区画整理事業により当地に遷座。王子台には記念碑ありとのこと。
王子台の記念碑は、佐倉市王子台6丁目7-1にあるようです。
次回は、生谷の高産霊神社
次回は、生谷の高産霊神社に寄り道します。弁天様から道路の向いになります。