(令和5年6月29日その3)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、吉田の宗像神社&吉田の慈眼寺(34番)の次は、吉田の万福寺(72番)に参ります。
慈眼寺の境内から北側道路に出て左を向くと、万福寺の山門が見えますので、そちらに進みます。
吉田の万福寺
真言宗豊山派、萬福寺、印西市吉田821番地。(千葉県の宗教法人名簿より)
印西大師72番。
山門の前が三叉路で、東に慈眼寺、南に大師堂のある吉田向山共同墓地、北は少し先に印旛霊園、西に山門です。山門の前左右に石塔石仏群、南への道路沿いにも石塔石仏群、山門の先真っ直ぐに本堂、本堂の左に72番大師堂などがあります。
道路沿い石塔石仏群
この中で、前列右から2、3、4番目の石塔石仏は、この写真右端(全体で右から2番目)の石仏は、中央上部に種字と「奉造立」、右「大日如来念佛同行男女現當〓〓祈処」、左「宝暦二申十一月吉日 吉田村 導師万福寺二世玄栄」、その左隣の石仏は、中央最上部に種字、右「大日如来尊一躰」、左「元禄十五壬午年霜月吉日」、その左隣の石塔は、正面の中央は種字に「湯殿山」、小さく「西國 坂東 秩父」、そして「諸願成就」、左右「月山 羽黒山」、右面「〓〓二壬戌年」、左面「天下泰平」とあります。(宝暦2年=1752年、元禄15年=1702年、江戸時代の壬戌年は前年の辛酉年にほぼ必ず改元されるので特定不能) 万福寺は、江戸時代中期の創建の様です。
前列右から5、6、7番目の石塔石仏は、この写真右(全体で右から5番目)の石仏は、中央最上部に種字、右「奉造立爲十九夜講二世…」、左「延宝六戊午天十月十九日」、その左隣の石塔は庚申塔ですが、三猿の上の青面金剛王を大きな梵字だけで表しています。(延宝6年=1678年)
前列右から8、9、10(、11)番目の石塔石仏は、これらの写真右(全体で右から8番目)の石仏は、右面「安永六〓酉十一月」かな?、その左隣の石仏は、中央上部「奉供養」、右上「庚申」、右下「吉田村」、左「享保十二丁未十一月八日」、 その左隣の石塔は、正面「奉待二十三夜塔」、右面「文化四卯年」とあります。(安永6年=1777年、享保12年=1727年、文化4年=1807年)
他の石塔石仏は、見たところ庚申塔のようです。
山門右の石塔石仏群
この中で、道路側の石塔は、手前の石塔、正面の中央は種字に「子安觀世音菩薩」、その左右「安政三辰年 四月吉日」、左面「吉田村女人講中」、後の石塔は墓石らしいのですが、正面左下に「菩提山無量院万福寺」とあります。(安政3年=1856年)中央奥の地蔵像は、中央最上部に種字、右「奉造立念佛講中」、左「天明五丁巳八月吉日」とあります。(天明5年=1785年)
左側の石塔ですが、この石塔、正面は種字に「〓讀誦普門品一万巻」、右面「觀世音講中」、左面は読み辛いが「嘉永〓癸丑十月吉日」でしょうか。(嘉永癸丑年=嘉永6年=1853年)
山門左の石塔石仏
左の石仏は、「安永五丙申年 十一月吉日」とあります。
山門
晴れてきて、太陽光が強くなってきました。
本堂
本堂左の諸堂
72番大師堂
弘法大師供養塔
大師堂の左に弘法大師供養塔がありました。
本堂左のお堂
次回は、松崎村ぐるみ農業集会所の大師堂
次回は、松崎村ぐるみ農業集会所の大師堂に参ります。万福寺の山門を出て右(南)に、向山共同墓地の角の十字路を右折して、坂を下ります。