(令和5年6月29日その1)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、本日は、先日の最終地点の岩戸の岩不動(86番)の隣の地区である、吉田地区から始めます。最初の大師堂は、向山共同墓地にあります。
出発地点は、阿宗橋一里塚という新川遊歩道の休憩所です。阿宗橋一里塚は、印旛放水路は新川の八千代市側(今は左岸、昔は右岸)、千葉県道263号の旧道阿宗橋と新道新阿宗橋の間に設けられた休憩所で、江戸時代の一里塚があったわけではないのです。対岸は、干拓地のさらに先が吉田地区になります。それにしても、思ったより雲が多い。
新阿宗橋を渡ります。この先、県道(新道)が左に曲がって旧道を合わせた後、丘の麓で右にカーブするところの三叉路を、印旛霊園や泉C.C.(カントリークラブ)の看板に従って左に入ります。入ってからすぐの十字路、この写真の右から来て右折し、写真奥の坂を上ります。坂の途中での下界は、こんな感じです。赤い阿宗橋が左に、その右奥に赤と白の新阿宗橋が見えます。
この坂を上りきると、左手に墓地が現れます。この墓地の中に大師堂があります。ここの三叉路は右に、直ぐの十字路を左折してすぐ左が、墓地の入口です。
向山共同墓地
入口から入って正面に薬師堂、右に向山共同墓地の記念碑や大師堂があります。また、入口から北東(右)の道路沿いに、石塔石仏群があります。
記念碑
大師堂
印西大師の明治初期の史料には、吉田の、万福寺(72番)から1丁20間の、かしのたへ(河岸ノ台)が掛所と記されています。この墓地から南東に急坂を下った所が、往時の船着き場つまり河岸なので、条件は合いそうです。
石塔石仏群
この写真の右手前から2番目と3番目の石仏、そして、一番左の石塔ですが、まず石仏は、下の写真の右の石仏は、右「奉造立十九夜二世安樂」、左「享保七年十月十九日」、台座「吉田村」、左の石仏は、中央は種字2字に「奉開眼供養念佛講中」、右「享保十九寅年十月十五日」、左「吉田村」とあります。(享保7年=1722年) 一方、石塔ですが、正面に「廿三夜廿六夜」、左面に「西…邑」、右面にも文字があって、道標を兼ねた月待塔の様です。
それでは、次ですが、墓地を出て左、この写真の奥へ進めば、すぐに万福寺です。しかしその前に、吉田の宗像神社に寄り道したいので、ここは写真右へ、墓地入口から少しだけ右に出て左そして直進します。その先の三叉路、ここを左折すれば、慈眼寺(34番)の近くに出ますが、今は右で蔵の前を通り、その先、道が千葉県道263号に合流する直前、左に印西市消防団第11分団第11部の倉庫と、吉田の宗像神社が現れます。
次回は、吉田の宗像神社&吉田の慈眼寺(34番)
次回は、吉田の宗像神社に寄り道した後、吉田の慈眼寺(34番)に参ります。