(令和5年6月29日その11)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、結縁寺(46番)周辺&熊野神社&大日塚の次は、多々羅田の厳島神社に寄り道した後、多々羅田の太子堂(60番)に参ります。
千葉県道4号の船尾車庫バス停前三叉路、ここを右折します。何軒かの民家を通り過ぎると、左手に杜となります。ここに多々羅田の厳島神社があります。
多々羅田の厳島神社
嚴島神社、印西市多々羅田52番地。(千葉県の宗教法人名簿より)
もう少し進んで道が左に曲がったら、折り返し気味の左に鳥居、鳥居の左前に説明板、鳥居の先に参道、その先に本殿、その周囲には水の無い水路があります。なお、大師堂はありません。
鳥居
説明板
これに拠れば、ご祭神は市杵島姫命( Ichikishima-hime )、田心姫命、湍津姫命の宗像三女神( three Munakata sister Goddesses )、当神社の創設は不明とのこと。日本語版と英語版とで内容に差異があります。
参道
本殿
それでは、次へ参ります。参道を戻り、鳥居から左に出ます。道が右に曲がった後、次の突き当たり三叉路、その向こう側の多々羅田青年館の敷地内に、60番大師堂があります。
多々羅田青年館
印西大師60番。(太子堂)
敷地の北東側半分に多々羅田青年館の建物、西角に60番大師堂、南西側に聖徳太子尊像開扉記念碑が2基、青年館の周囲に石塔石仏群があります。
聖徳太子尊像開扉記念碑
古い石碑は、ちょっと読みにくいのですが「昭和五十三年十一月吉日」とあるようで、一方、新しい石碑は「平成二十三年十一月吉日」とあります。(昭和53年=1978年、平成23年=2011年) 昭和側石碑の読み取りが間違っていなければ、33年毎の開扉、次回は2044年になります。
また、聖徳太子尊像、つまり太子像が納められている事も判ります。太子像を納めたお堂が太子堂です。
60番大師堂
ピントが台座に合っていないのですが、台座には右「〓政十三」、左「三月」とあるようです。〓政は、印西大師の歴史的に、おそらく文政でしょう。(文政13年=1830年)
印西大師の明治初期の史料には、多々羅田の、たことう(凧堂)として登場します。凧ってなんやねん。しかし聖徳太子の「太子」を「たこ」と読んでしまうのは、あるかもしれません。
石塔石仏群
青年館の道路側から幾つか、この写真、右の石仏は、中央最上部に種字、右「十九夜供養塔」、左「宝暦十二壬〓 十一月〓〓」、左の石仏は、中央最上部に種字、右「花見堂」、左「宝暦六丙子三月吉日」とあって、花見堂地蔵です。(宝暦13年=1763年)こちらの石仏は、中央最上部に種字、右「奉〓立十九夜」でしょうか。こちらの石仏は、右「天保二卯〓一月吉日」、左「子安觀世音」とあります。(天保2年=1831年)
次回は、船尾の白山神社&船尾の観音堂(58番)&船尾の宗像神社
次回は、船尾地区の白山神社、観音堂(58番)、宗像神社の順に参ります。