(令和5年6月29日その8)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、前戸(松崎)の大師堂の次は、結縁寺頼政塚などに参ります。
既に頼政塚の南すぐの三叉路に来ています。案内看板のとおりに進みますと、進路左手に頼政塚です。
結縁寺頼政塚
道路から境内に入って左に大師堂、右にもお堂、参道真っ直ぐに頼政塚です。
大師堂
印西大師の明治初期の史料にも、結縁寺(村)の、よりまさとう(頼政堂)が掛所と記されています。
頼政塚全景
塚から大木が伸び、その周囲は柵で囲われています。柵の中に頼政の墓(供養塔)、柵の外の右に石碑、左に常夜灯、さらに右前に説明板があります。
説明板
供養塔
右の供養塔はちょっと読めません。左の供養塔は、中央は梵字に「源三位頼政公建法澤山頼圓大居士」、右「治承四庚子星五月二十〓日」、左「安政六己未年〓六百八十歳」とあります。(治承4年=1180年、安政6年=1859年=源頼政680回忌の年)
石碑
ここは左面から、左面の右「下之総州伊波湖西舟尾郷結縁寺」、左「松替郷布川杉野東山謹書」、右面の右「香取軍曹中臣蔃麻呂」、左にはたぶん和歌。正面は、タイトル「源三位頼政公冢碑」、碑文のうち、頼政が死んだ直後の文は「其臣下河邉藤三郎清恒負笈其首而至于阪東印旛郡埋葬」、末尾に「去 山城國宇治境尺八百里餘 文政九丙戌龝七月 前大澤山休隠沙門快傳謹誌」とあります。(文政9年=1826年)
常夜灯
常夜灯の正面「常夜燈」、右面「文政九戌年八月吉日」とあり、石碑と同年に設けられたようです。
お堂
この頼政塚のすぐ近くに別の大師堂がありますので、そちらに参ります。参道から道路に出て左へ、数十メートル進んで木々が途切れると、右手に大師堂があります。
結縁寺頼政塚近くの大師堂
それでは次ですが、結縁寺(46番)に参る前に、頼政塚関連の名馬塚にも行ってみます。来た道を戻り、この記事冒頭の三叉路を、名馬塚の案内看板のとおりに右折、そこから約0.35kmの三叉路、ここは、道なりに左で、すぐに左手に名馬塚です。なお、ここを右折すると結縁寺(46番)に至ります。
名馬塚
どれが塚なのかよく判りませんが、説明板や、馬頭観音の石塔石仏群があります。
馬頭観音群
この中で一番大きな石塔は、お供え用の入れ物がある正面の中央「馬頭觀世音」、その下「西 舟尾 江戸 道」、右面の中央「南 結縁寺 道」、その左右「天保十二丑年 十一月吉日」、左面「北泉新田大森〓」、背面「東 惣深新田安食〓 惣深 成田 〓」とあります。(〓は「へ」の変体仮名?、天保12年=1841年) 南に結縁寺なので、昔はもっと北、例えば今の高花5丁目の南東部辺りにあったのでしょう。
こちらの馬頭観音は、右「寛保二壬戌三月吉日」とあります。(寛保2年=1742年)それでは、今度こそ結縁寺(46番)に参ります。少し戻って三叉路を左折し、道なりで平坦から下り坂になり、その坂下で、左に結縁寺の山門が見えます。
次回は、結縁寺(46番)
次回は、結縁寺(46番)に参ります。