(令和5年6月29日その7)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、松崎の多聞院(50番&67番)の次は、前戸(松崎)のコミュニティセンター前戸の里にある大師堂に参ります。
多聞院の前の道を左(東)に戻り、印西市消防団第5分団第4部倉庫前三叉路から、新道を左折します。その新道、現時点での拡張区間が終わってすぐ、別の道との十字路となります。ここは直進して、その先やや右に、坂を下ります。道なりに進んで、坂を上り始めたら、右手に大師堂と集会所(コミュニティセンター前戸の里)が現れます。消防団倉庫から約0.35kmです。
コミュニティセンター前戸の里
入口入って真っ直ぐにコミュニティセンター前戸の里の建物、入口左に大師堂、大師堂の右後ろに石塔石仏群があります。
コミュニティセンター前戸の里看板
前戸は、地理院地図にも記載があるので、この辺りの小字でしょう。
大師堂
御詠歌はオリジナルで、「西方(サイホー)に むきし〓〓〓〓 向堂(ムカイド〓) 日ゝ(ビ)に〓〓〓〓 後(ノチ)の世のため」と、向堂(むかいどう)が詠み込まれています。印西大師の明治初期の史料には、松崎の、むかいとう(迎堂)が掛所と記されています。
石塔石仏群
(ここでは、コミュニティセンターをC.C.と表記)この中で、まずは、背の高い地蔵像の右後列4番目の石仏、この石仏は、中央最上部に種字らしきもの、右「十九夜供養塔」、左「文政十歳次丁亥十月十九日」とあります。(文政7年=1827年)
続いて、地蔵像の右隣、この写真の左端に台座の一部だけ見切れているのが地蔵像、その前列右隣の石仏は、中央最上部に種字、右「奉供養十九〓念佛二世安禾〓」、左「享保八癸〓十一月吉日」、その右隣の石仏は、中央最上部に種字、右「十九夜念佛」、左「寛政九巳二月吉日」、この石仏2基の間後方の石仏は、左「奉造立十九夜…」、左「明和二乙酉十一月吉日」などとあります。(享保8年=1723年、寛政9年=1797年、明和2年=1765年)
こちらは、地蔵像の左隣後列、この写真の右の石仏は、右「奉造立〓〓…九夜 松崎村講中」、左「寛延三庚午十一月日」とあります。(寛延3年=1750年)
最後に、大きな地蔵像の左前列2番目の小さな地蔵像、こちらは、右「奉造立地藏菩薩」、左「寛保二戌三月吉日」とあります。(寛保2年=1742年) 三月の地蔵ということで、花見堂地蔵かもしれません。
それでは、次へ参ります。道路に出て、どっちかな、左(南)にしましょう。坂を下ってすぐの十字路、ここを右折、そうするとまた上り坂で、(アップダウンの点で)これで良かったのか疑問ですが、まあ、坂上の突き当たり三叉路、ここを右折、すぐの二股三叉路、こちらは左で、そこから坂を下り、谷津田を横断して、反対側の坂を上ります。台地の上に出てからの三叉路、その右手前に何かがあります。この写真の奥から来ています。この写真の左(松崎から来たときの右)80mに頼政塚、右手前800mで名馬塚と結縁寺とあります。
次回は、結縁寺頼政塚など
次回は、結縁寺頼政塚などに参ります。