(令和5年6月17日その8)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、続・鎌苅の東祥寺(9番&40番)の次は、師戸の広福寺(33番&77番)に参ります。
既に広福寺のそばまで来ています。門前に、印西市消防団第10分団第7部の倉庫、「師戸改善センター前」バス停があります。広福寺の入口は、消防分団倉庫の向こう(南)側になります。
師戸の広福寺
真言宗豊山派、廣福寺、印西市師戸1486番地。(千葉県の宗教法人名簿より)
印西大師33番&77番。入口からスロープを上がって石柱門、門の先参道真っ直ぐに本堂、本堂の右前に修行大師像、その右に77番大師堂、本堂の左に33番大師堂、門までの左右に石塔石仏多数、門を入ってすぐ左に行くと別の大師堂があります。
門前石塔石仏群
門の右手は、主に子安さんです。平成期に造立された子安像も2基ありました。
一方、門の左手にも石塔です。この写真の右、一番大きな石碑は、中央「奉納經普門品五万巻供養塚」、その右「明治十七申年十一月」とあります。(明治17年=1884年)
その左の石塔から見ていきます。この写真の左の石塔、正面の中央は種字に「普門品一萬誦供養塔」、その左右「文化八辛未〓 〓月…」とあります。(文化8年=1811年)
右の石塔は、正面に六地蔵らしき彫像があり、右面の中央は種字に「奉唱〓光明真言二百万遍成就之」、その左右「寛政七乙卯天 十月〓〓日」、左面は角度がありますが、「西臺女念仏講 同十九夜講 岡臺奈良戸両〓」でしょうか。(寛政7年=1795年)
その左の石塔は、六十六部供養塔で、正面は種字に「廻國納經供養塔」、右面「三界萬靈 皆成佛道」、左面「明和七庚寅年 三月吉日 行者教〓」とあります。(明和7年=1770年)
その左の石塔2基ですが、この写真の右の石塔は、正面「奉納 秩父 西國 坂東 百番供養塔」、右面「文政十二己丑年十一月吉日」とあります。(文政12年=1829年) その左の石塔ですが、
60番高福寺標識塔
まず、正面は種字に「光明神咒百萬遍供養塔」、右面「于時文政第七歳次甲申彌生」とあって、左面は「准四國第六十番土州高福寺寫」なのです。高福寺(現 雪蹊寺)は土佐国(土州)にある33番札所ですが、何故か60番になっています。
ようやく石柱門に入りますと、その左側に古い手水鉢があって、その奥に建物が見えます。
古い手水鉢
手水鉢には「安政六年己未 十月吉〓」とあります。(安政6年=1859年)
奥の建物ですが、
番外大師堂
回り込んでみると、中に大師像が多数納められていました。ただ、88体には遠く及ばないようです。
本堂
修行大師像
修行大師像の右に、たぶん弘法大師供養塔などがあります。
77番大師堂
印西大師の明治初期の史料には、77番札所は、砂田の、こくうぞうとう(虚空蔵堂)となっています。いつ頃、当地に転入したのかは不明です。
77番大師堂の後方の建物が、先に触れたバス停にもある「師戸改善センター」でしょう。
師戸改善センター
看板に字があるのは判りますが、読めません。
33番大師堂
一方の33番ですが、こちらは印西大師開創以来、広福寺が33番札所でして、前述の明治初期の史料でもそうなっています。
次回は、師戸の宗像神社&師戸の長円寺(29番)
次回は、師戸の宗像神社に寄り道した後、師戸の長円寺(29番)に参ります。門から道路に出て右折(南行)します。