(令和5年6月17日その7)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、鎌苅の東祥寺(9番&40番)&鷲宮神社の続きからになります。
鷲宮神社や40番大師堂などの参拝を終えて、東祥寺の山門にたどり着きました。
鎌苅の東祥寺
曹洞宗、東祥寺、印西市鎌苅543番地1。(千葉県の宗教法人名簿より)
印西大師9番&40番。
山門
この山門は鐘楼を兼ねています。その左前に小さな説明板があります。これに拠れば、開山は1472年、最も古い建築物は山門で、万治元年(1658年)以前のもの。1472年は、文明4年(享徳21年)で、京では応仁の乱が、関東では享徳の乱が継続中という時期です。
夢大師
山門の右に「夢大師」という大師堂があります。
本堂
丁度お勤め中で、般若心経も聞こえてきました。
東祥禅寺殿堂再建碑
本堂の左、墓地に抜ける方向に、東祥禅寺殿堂再建碑がありました。これに拠れば、明治7年4月8日の火災で楼門を残して焼失、明治29年5月2日再建落慶。(明治7年=1874年)
9番大師堂
台座の写真、ピントがずれてしまったのですが、「九」の字は判ります。
弘法大師供養塔
9番大師堂の左に、弘法大師供養塔があります。供養塔の正面「南無弘法大師供養塔」、右面「明治三十三年四月吉日」とあります。
それでは、次へ参ります。山門を出て真っ直ぐ進んでの突き当たり三叉路、左に「不許葷酒入山門」の石塔のあるところを、右折(南行)します。鎌苅の集落の終わりの三叉路、ここは右に行くのですが、その前に、目の前の鳥居を確認。小さな石祠がありました。道に戻ります。すぐの交差点を横断すると、その交差点の南西角に、石塔群がありました。
鎌苅南西の石塔群
写真右端の石塔は道標を兼ねた庚申塔、その左も庚申塔、その左の石塔は、正面「奉待二十三夜塔」、左面「享和二戌三月吉祥日」とあり、その左(、つまり左端)の石塔の正面は多分「金剛王」とあって庚申塔です。(享和2年=1802年)
ここから南西に進み、鎌苅地区から師戸地区に移ります。交差点から約0.65km強、右から来た道と合流する二股三叉路、その股間に庚申塔がありました。この写真は、少し南に進んでから振り返ったものです。二股三叉路は、右にショートカットのアスファルト舗装路、左に庚申塔、股間にも庚申塔ですが、ここでは股間に注目します。
師戸北の道標兼庚申塔
庚申塔の正面の中央「青面金剛」、その左右「寛政十一未歳 二月吉日」、左面「左きおろし道」、右面「右なりた道」、台座正面「師戸村講中」、台座左面「西〓戸道」、台座右面「南さ〓ら道」とあって、道標を兼ねた庚申塔です。ただ、塔本体と台座の製作時期は、異なるような気がします。(寛政11年=1799年)
ここから南に約0.18kmほど進むと、左にポツンと石塔がありました。
師戸北の三山供養塔
石塔の正面の上「湯殿山」、その左右「羽黒山」、「月山」、その下「供養塔」、右面「文化十三丙子四月吉日」とあり、台座(右面)には男衆の名前が苗字付で記されています。(文化13年=1816年)
さらに南に約0.7km道なりに進みます。すると、右手にお寺のお堂が見えてきます。師戸の広福寺(33番&77番)です。
次回は、師戸の広福寺(33番&77番)
次回は、師戸の広福寺(33番&77番)に参ります。