(令和5年5月9日その4)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、行徳の稲荷神社と大日堂の次は、中根新田(中)の八幡神社、続けて、萩原新田(萩埜)の鳥見神社に参ります。
稲荷神社の裏手(西側)、堤防上の道路の十字路に戻って左折します。そこから約0.5km進んで、堤防がだんだん低くなった辺りの十字路で、左手に八幡神社の小さな社殿の裏側が見えます。この十字路を左折します。すぐに道路右の用水路に橋が架かっていて、そこを渡ると近いのですが、本日は突き当り三叉路まで行って右折、その次の十字路との中間ぐらいで右を見ます。それから十字路を右折して、神社の南側から境内へ参ります。
中根新田(中)の八幡神社
八幡神社、印西市中21番地。(千葉県の宗教法人名簿より)
この地は、元々は西隣の中根村(→本郷村中根→本埜村中根→印西市中根)の人達が開拓したので中根新田と呼ばれていたものが、埜原村中根になり、埜原村と本郷村の合併により中根が重複するので、本埜村中(→印西市中)となったものです。
神社ですが、鳥居の先が少し高くなって社殿の小さな神社です。社殿の右前に大師堂と印西大師関連の弘法大師供養塔、社殿の左に石仏群があります。
社殿
大師堂
弘法大師供養塔
供養塔の正面「南無大師遍照金剛」、台座「小廻組合」、左面「先達 笠神 南陽院 砂田 西福寺 萩原 龍泉院」、背面「昭和三十三年三月二十一日建之」とあります。(昭和33年=1958年)
印西大師の明治初期の史料には、中根新田の、みたとう(弥陀堂)が掛所として記されていて、こういう新田地域には、他に適地も少ないので、ここがその系譜にある可能性大です。
石仏群
この中で前列左から2番目の石仏は、右「奉待十九夜講中」、左「享和元酉十一月吉日」とあります。(享和元年=1801年)
後列の左から3番目から5番目を近接撮影しますと、この中での左の庚申塔は、上「奉供養」、左「享保十八丑 十一月〓日」、中央の庚申塔は、右「中根新田」、左「宝暦三癸酉八月吉日」、右の十九夜塔は、最上部に種字、右「奉造立十九夜念佛供養〓」、左「明和元年甲申十一月吉日」とあります。(享保18年=1733年、宝暦3年=1753年、明和元年=1764年)
それでは、次に参ります。神社から南の道路に出て左(東)に進み、そこから約0.35km、印西市中の家が飛び飛びに並んでいるところを通過しての十字路に出て、ここを右折、突き当りの三叉路のところ、右側に、鳥見神社社殿の背中が見えます。三叉路を右折して、反対側に回ります。
萩原新田(萩埜)の鳥見神社
鳥見神社、印西市萩埜17番地。(千葉県の宗教法人名簿より)
この地も、元々は南隣の萩原村(→六合村萩原→印旛村萩原→印西市萩原)の人達が開拓したので萩原新田と呼ばれていたものが、分割して一部は萩原村と合わさって六合村萩原になり、残りが埜原村萩原(→本埜村萩原)となって、印西市と本埜村と印旛村の合併により萩原が重複するので、印西市萩埜となったものです。
神社の方は、敷地に入ってから左に鳥居、その先少し高くなって社殿、鳥居の右方向の敷地奥に大師堂と印西大師関連の弘法大師供養塔、社殿の左に石塔石仏群があります。
鳥居と社殿
大師堂
弘法大師供養塔
供養塔の正面「南無大師遍照金剛」、台座「小廻組合」、左面「先達 笠神 南陽院 砂田 西福寺 萩原 龍泉院」、背面はちょっと読みにくいのですが「昭和三十八年三月二十一日建之」とあります。
石塔石仏群
「水神宮」のみ左手前で他とは話して祀り、後方は3列で、第1列の左から2番目が道祖神石祠、他は仏教的な石塔石仏群です。その中で2列目中央は「回國納経供養塔」だったと写真を見て確認しました。第3列(最後列)では、右端の石仏には右「十九〓念佛」、左「十月十九日」、右から2番目の庚申塔は右「造立庚申供養爲二世安樂」、左は読み辛いが「元禄十〓」とあるようです。(元禄年間=1688年から1704年)
印西大師の明治初期の史料には、萩原新田の、みたとう(弥陀堂)が掛所として記されていて(、以下同文)。
次回は、中根の東漸寺(35番&45番)
次回は、中根の東漸寺(35番&45番)に参ります。千葉県道291号はあまり使いたくないので、来た道を返して、八幡神社の北西の十字路まで戻ります。