(令和5年5月9日その3)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、下曽根の市杵嶋神社&再訪・小林新田の観音堂の次は、行徳の稲荷神社と大日堂に参ります。
市杵嶋神社の裏(西)側の堤防上の道路に出て左に進みます。次の十字路までの途中、右側は次の写真のようになっています。写真の左の小山に笠神の鳥見愛宕両社が、右の小山に笠神の蘇羽鷹神社があります。そして、道路の進行方向やや左側は、民家の入口で垣根が切れているところの向こうに、稲荷神社が見えます。次の十字路を左折します。すると、右側に印西市消防団第14分団第9部の倉庫があって、その左に稲荷神社の社殿の背中や鳥居、さらに左に大日堂兼一区コミュニティセンターの側面が見えます。稲荷神社の正面に回り込みます。
行徳の稲荷神社
稲荷神社、印西市行徳20番地。(千葉県の宗教法人名簿より)これもまた小さな神社で、参道真直ぐに鳥居、鳥居の先も参道真直ぐに社殿、社殿の左が摂末社で、社殿の右前に弘法大師供養塔が2基、社殿の右に石塔石仏、境内の右に大日堂兼一区コミュニティセンターです。大日堂の一角に大師像が祀られています。
鳥居の神額
鳥居の神額には最上部の二文字は読めず、その下に「正一位稲荷社」、左に「遮那業〓〓 執行探題前大僧正豪観八十〓〓」とあります。豪観(宝暦6年(1756年)ー弘化4年(1847年))、文化元年(1804年)自坊に稲荷神を祀る、文化14年(天台宗)大僧正、文政2年(1819年)隠居だそうです。(Ref. 加藤諄 https://core.ac.uk/download/pdf/144467733.pdf)
社殿
摂末社
弘法大師供養塔
社殿に近い方の供養塔は、大師像の下の中央「南無大師遍照金剛」、その左右「明治十三年 五月廿一日」とあります。(明治13年=1880年)もう一方は、印西大師関連の弘法大師供養塔で、その正面「南無大師遍照金剛」、台座「小廻組合」、左面「先達 笠神 南陽院 砂田 西福寺 萩原 龍泉院」、右面「昭和三十一年三月廿一日建之」とあります。(昭和31年=1956年)
石塔石仏
大日堂兼一区コミュニティセンター
看板は2枚、右側が「大日堂」、左側が「一区コミュニティセンター」です。
この建物の南西角の稲荷神社側が、大師堂になります。印西大師の明治初期の史料には、行徳新田の、いなりとう(稲荷堂)が掛所として記されていて、ここが該当しそうです。但し、同史料には、隣村の下曽根新田の、大にちとう(大日堂)も掛所となっていて、ここの大師堂は大日堂にあるわけで、少し迷います。
次回は、中根新田(中)の八幡神社&萩原新田(萩埜)の鳥見神社
次回は、中根新田(中)の八幡神社、続けて、萩原新田(萩埜)の鳥見神社に参ります。稲荷神社の裏手、堤防上の道路の十字路に戻って左折(南行)します。