(令和5年6月25日その9)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、岩戸の泉福寺(74番)の次は、岩戸の岩不動(86番)に参ります。
泉福寺から道路に出て左に進み、坂を下っての三叉路、ここも左折します。次の三叉路、これまた左折、ゆるゆる道なりで、印旛西部公園野球場の照明設備が見える辺りの三叉路、ここは写真手前の三叉路を右折します。その先で道が緩く右に曲がるところ、手前の住宅の屋根の向こうにお堂の屋根が見えますが、それが目的地です。右に曲がった直後の三叉路、左に曲がると階段です。階段いやや、という訳で、最後の左折三叉路まで戻って左折します。その先で、上り坂になり始めたところ、左の民家ではなく、さらに左に折り返します。折り返した先も坂を上ると、先程の階段の上に出ます。写真の右に西方公民館、前方に進んで右に岩不動(86番)です。
岩戸の西方公民館看板
岩戸の岩不動
千葉県の宗教法人名簿には記載がありません。
この進路で来た場合、左に下り階段、前に墓地、右に少し進むと上り階段、その先参道真っ直ぐに不動堂、不動堂の右前に86番大師堂、上り階段の上と下に各石塔石仏があります。
岩戸の岩不動階段上
先程下まで来た階段を上から見下ろします。反転します。
岩不動全景
更に階段があるわけですが、先ず手前の手水鉢、続いて石仏群を見ます。
手水鉢
手水鉢には「奉納念三夜講中 下総國印西岩戸村 駒目山圓福寺不動堂前 金剛山西福禅寺住〓慧 享保十三戊申十月吉日」とあります。(「駒」の字は読み違えがあるかもしれない、享保13年=1728年) これより、この不動堂自体は、駒目山円福寺と称していたらしい事が判ります。
石仏群
階段前左側の石仏ですが、写真右の石仏は、中央「十九夜」、左「寛政六甲寅十一月吉日」、左の石仏は、最上部に種字、右「十九夜供養〓」、左「文政七申二月吉日」とあります。(寛政6年=1794年、文政7年=1824年)
一方、右側の石仏は、右の地蔵像は、台座の中央「奉造立地蔵尊一躯」、その左右「寛保三癸亥年 十月吉日 岩戸村」とあります。(寛保3年=1743年) 一方、左の石仏は、右面に字が見えますが判読できません。
階段を上って右の石仏は、写真右の石仏は、右「奉造立如意輪観音尊〓岩戸村」、左「茲時元禄六癸〓天〓月吉日」とあります。(元禄6年=1693年)
不動堂
86番大師堂(西方大師堂)
大師堂の右に、西方御大師堂の説明板があります。
西方御大師堂説明板
なお、西方というのは、地理院地図に記載があるように、この辺りの小字です。
境内
実は、不動堂の左側の墓地を進むと、階段を使わずに西方公民館前まで行き来できます。
帰宅
今日はここまでとします。本日は、印西大師の番付札所5ヶ所、それ以外の場所にある大師堂7ヶ所などに参りました。
この後、岩戸の北北西から草深への旧道を進んで、庚申塔などを見つけましたが、割愛します。