(令和5年6月17日その4)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、瀬戸の宗像神社に寄り道の次は、瀬戸の願定院(24番)に参ります。
既に願定院の前に来ています。
瀬戸の願定院
天台宗、願定院、印西市瀬戸972番地。(千葉県の宗教法人名簿より)
印西大師24番。
六阿弥陀4番。
南から来た時は、東から来た道にぶつかって西を向くとその先に山門、山門の左に「願定院檀家の皆様へ」案内板、その左に六阿弥陀4番標識塔、山門の右に「願定院の縁起」説明板、その右に24番大師堂、さらに右に別の大師堂(坪内堂)、山門の先は参道真っ直ぐに本堂です。一方、山門前を右(北)に進むと、少し先に馬頭観音堂、その左前に毘沙門堂があります。
山門
六阿弥陀4番標識塔
標識塔の正面中央「六阿弥陀如来」、その右上「第四番」、左面「嘉永四年六月十日」、右面「昭和七年七月 改築人」とあります。(嘉永4年=1851年、昭和7年=1932年)
「願定院の縁起」説明板
これに拠れば、山号は無量寿山、寺号は本願寺、本尊は阿弥陀如来坐像、本堂と山門は享保14年(1729年)の再建。明治維新の時に、瀬戸村郷の神明山宝蔵寺と、瀬戸村新立の東蹄山光明寺を合併した。
たしかに、本尊阿弥陀如来の寺が寺号の本願寺をメインに名乗ると、紛らわしいことになりそうです。
24番大師堂
別の大師堂(坪内堂)
台座には「坪内堂 施主」とあります。
印西大師の明治初期の史料には、願定院に24番札所と、それとは別の掛所があり、さらに近隣に、つぼのうちとう(坪ノ内堂)が掛所として記されています。こちらの大師堂は、その坪内堂(坪ノ内堂)で間違いないでしょう。
弘法大師供養塔
大師堂ふたつの右に、弘法大師供養塔がありました。供養塔の正面「南無大師遍照金剛」、左右面は、字があるのは確認できるが、読みきれません。
本堂
本堂には、六阿弥陀4番の御詠歌額が架かっています。
石塔石仏群
大師堂と毘沙門堂の間ぐらいに、石塔石仏群がありました。
馬頭観音堂
馬頭観音堂の右前に説明板があります。これに拠れば、天正13年(1585年)に倒壊、正保2年(1645年)再建、享保11年(1726年)再建、本尊は馬頭観世音菩薩立像で秘仏。この絵馬には、馬が7頭(鹿毛・栗毛4頭、黒っぽいのが1頭、芦毛2頭)描かれていますが、鼻先が見える6頭全て、その鼻(口)先にザルの様なものを被せています。人物は男2人で、先頭の男は完全な和装、後ろの旦那は、小さな帽子に眼鏡をしています。
この絵馬は、宗甫の宗甫観音堂の絵馬と同時期に描かれたものでしょうか。この額の中央「奉納西國秩父坂東巡礼二世安樂所」、右「下総國印旛郡印西庄 願主」、左「宝永三丙戌天二月」とあり、男12人の名(苗字無し)が記されています。(宝永3年=1706年)
馬頭観音堂石灯篭
左右一対のうち、右(東)は古いものです。石灯篭の正面「奉納御寳前」、左面「本堂彩色 石灯籠 寄進」、右面「文化十〓丙子六月吉日」、背面「無量壽院現住」とあります。(文化1n丙子年=文化13年=1816年)
毘沙門堂
この毘沙門堂は、光明寺に由来するものです。
次回は、鎌苅の宗像神社&鎌苅の不動堂
次回は、鎌苅の宗像神社に寄り道した後、鎌苅の不動堂に参ります。願定院の山門から、いったん東に出ます。