(令和5年4月21日その2)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、宗甫の皇大神宮に寄り道の次は、宗甫の宗甫観音堂などに参ります。
皇大神宮の参道を戻り、道路を右(西)に出て、次の交差点を右折、次の三叉路は左折して、皇大神宮からは約0.3kmで、左手に観音堂が現れます。切り株が目立ちます。少し前まで、ここは木々に覆われていたのですが。
宗甫観音堂
境内に入ってから、すぐ左右に石塔石仏、手水鉢、その先に進むと右に大師堂、さらに奥に観音堂となっています。観音堂の向こうに保育園が見えます。
扁額絵馬
観音堂の扁額に架かっている絵馬です。明治に奉納された絵馬ですが、なかなか興味深いものです。男2人が馬7頭を連れて歩いています。先頭の男は江戸時代のままの様式ですが、後ろの男は洋風の帽子を被っています。馬は、白い芦毛が2頭、黒っぽい馬が2頭、薄い鹿毛あるいは栗毛が3頭。この7頭のうち、他馬の影になっている1頭を除いた6頭の鼻が、全て青く描かれています。また、28本の脚のうち、はっきりしない1本を除くと、19本の蹄が青く、8本の蹄が白く描かれています。この鼻と蹄の青色の意味は謎です。
大師堂
16番の御詠歌を掲示。この御詠歌は、16番(阿波)観音寺のものです。
弘法大師供養塔
大師堂の左隣に、弘法大師供養塔があります。供養塔の正面「南無大師遍照金剛供養塔」、左面「先達 笠神 南陽院 砂田 西福寺 萩原 龍泉寺」、右面「大正十二年九月廿一日」とあります。(大正12年=1923年)
印西大師の明治初期の史料にも、宗甫新田のくわんおんとう(観音堂)が掛所であったと記されています。
入口近くの石塔石仏
入口左手には石仏が7体あり、うち左3体には「十九夜」と明記されています。中央の石仏には「天明四甲辰年十月吉日」とあります。(天明4年=1784年)入口右手の石塔石仏は3基あり、中央の石塔は、正面の中央「奉讀誦觀音経二千巻供養塔」、その左右上部「明和四丁亥天 十月吉祥日」とあり、観音堂らしさがあります。(明和4年=1767年) 右の地蔵像には「寛政八辰十月吉日」とあります。(寛政8年=1796年)
手水鉢
手水鉢には「文化」「十月吉日」とあります。(文化年間=1804年から1818年)
それでは、次に参ります。観音堂から道路に出て左(西)に、すぐの十字路(元は三叉路)、ここを右折します。右折後に左側となる梨畑、梨の枝は伐採され、一戸建住宅地になるための開発事業事前公開板が掲示されています。この辺りもだんだん、ニュータウンに呑み込まれていくようです。
そのまま道なりに進み、坂を下りて左にカーブして、右手の亀成川に近い道を通ります。逆川橋のところ、この写真の右端が橋ですが、写真中央奥の細い道を西に進みます。そして、別所橋まであと約0.1kmのところで、右手に大師堂や石塔石仏があります。ここまで、宗甫観音堂から約1.4km。
亀成川別所橋東の大師堂・石塔石仏
大師像台座に80番、88番。堂内の左の台座に「八十番」、右の台座に「八十八番」とあります。背の高い庚申塔は、正面右に「文化四卯十一月吉日」とあります。また、写真を見て初めて判ったのですが右に「右木下」とあって、道標を兼ねているようです。その左の庚申塔は、正面「庚申〓」、右面「天保四癸己年四月吉日」とあります。(天保4年=1833年)
少し西に進んでから振り返ります。大師堂の西側に、住宅1軒はさんで、印西市消防団第1分団第4部の倉庫がありました。
次回は、別所の宝泉院(70番)
次回は、別所の宝泉院(70番)に参ります。別所橋南まで進んで右折(北行)し、橋を渡ります。