東葛印旛大師&島大師巡拝 手賀の兵主八幡両神社(13番)

(令和4年9月10日その6)
東葛印旛大師巡拝、下柳戸(柳戸)の下総四郡大師道標の次は、手賀の兵主八幡両神社(13番)に参ります。
兵主八幡両神社の南側鳥居から少し南の地点、左に庚申塔群のある地点に来ています。

兵主八幡両神社南の庚申塔群(再掲)
兵主八幡両神社南の庚申塔群(再掲)
先にこの庚申塔群を見てみます。

兵主八幡両神社南の庚申塔群

東葛印旛大師文政期から明治初期の56番候補。

兵主八幡両神社南の庚申塔群
兵主八幡両神社南の庚申塔群
まずは一番右(北)の、最も古そうで、きちんと祀られている庚申塔、
兵主八幡両神社南の正徳の庚申塔
兵主八幡両神社南の正徳の庚申塔
正面の中央「奉〓青面金剛各願〓〓所」、正面の左右上部「正徳二壬辰天 二月吉祥日」、正面の左右下部「手賀村同行 拾三人敬白」とあります。(正徳2年=1712年)
続いて、中程の庚申塔、
兵主八幡両神社南の延享の庚申塔
兵主八幡両神社南の延享の庚申塔
左面に「延享元甲子十月吉日」とあります。(延享元年=1744年)
最後に、一番左(南)で最も背の高い庚申塔、
兵主八幡両神社南の寛政の庚申塔
兵主八幡両神社南の寛政の庚申塔
左面に「寛政十二庚申年十月吉祥日」とあります。(寛政12年=1800年)
さて、東葛印旛大師の56番札所は、文政期から明治の神仏分離期までは、手賀村の、八幡神社から半丁の距離の庚申堂にありました。ここの庚申塔群が、往時の庚申堂と関係するのかは不明ですが、候補地にはなると思います。なお、56番札所は、その後転々とした後、現在は金ヶ作の熊野神社(56番)にあります。
それでは、兵主八幡両神社に参ります。

手賀の兵主八幡両神社

兵主八幡両神社、柏市手賀1418番地。(千葉県の宗教法人名簿より)
東葛印旛大師13番。
島大師51番から57番&59番&60番&番号不明(50番?と58番?)2ヶ所の計11ヶ所確認。
東葛印旛大師では、札所の数の関係かどうかは不明ですが、片山地区の扱いになっているようです。

南側の鳥居・参道

手賀兵主八幡両神社南側鳥居
手賀兵主八幡両神社南側鳥居
南側からですと、東側道路と平行した参道が長く続きます。
手賀兵主八幡両神社南側参道
手賀兵主八幡両神社南側参道
その先ようやく、左(西)に鳥居と拝殿、拝殿に相対して右(東)に鳥居、この鳥居の南側に旧沼南町設置の標柱、これらの先(北)にも鳥居、拝殿の手前少し離れて13番大師堂と13番標識塔があります。
手賀兵主八幡両神社境内
手賀兵主八幡両神社境内

東側の鳥居

手賀兵主八幡両神社東側鳥居
手賀兵主八幡両神社東側鳥居

旧沼南町設置の標柱

旧沼南町設置の標柱
旧沼南町設置の標柱
これに拠れば、昔は手賀の原氏の鎮守、(先程の参道)直線路は馬場跡、(今は)手賀・片山両地区の鎮守、本殿は文化14年(1817年)の再建。

西側の鳥居・拝殿

手賀兵主八幡両神社西側鳥居・拝殿
手賀兵主八幡両神社西側鳥居・拝殿

狛犬

手賀兵主八幡両神社狛犬正面
手賀兵主八幡両神社狛犬正面
手賀兵主八幡両神社狛犬背面
手賀兵主八幡両神社狛犬背面
狛犬の台座の正面「兩村」、背面「萬延元庚申年九月吉日」とあります。(万延元年=1860年) この頃には既に、手賀村・片山村の両村の鎮守であったようです。

灯篭

手賀兵主八幡両神社灯篭
手賀兵主八幡両神社灯篭
灯篭は複数組ありますが、拝殿に一番近いものは「文久ニ戊年九月吉日」とあります。(文久2年=1862年)

13番大師堂

13番大師堂
13番大師堂
13番御詠歌額
13番御詠歌額

13番標識塔

13番標13番標識塔右面
13番標識塔正面右面
標識塔の正面「第十三番寫阿州一ノ宮寺」、右面「昭和四十四年四月吉日」とあります。(昭和44年=1969年) 昭和の建立なのに、大日寺では無く、一ノ宮寺の表記です。

島大師の標識塔と境内社

島大師の標識塔と、それに関係する境内社については、次回の記事に纏めます。