続々・生実町の重俊院(84番)生実藩主森川家墓所

(令和6年5月10日その7)
千葉寺十善講八十八ヶ所巡拝、生実町の重俊院(84番)生実藩主森川家墓所の続きです。

生実町の重俊院

曹洞宗、重俊院、千葉市中央区生実町1158番地。(千葉県の宗教法人名簿より)
千葉寺十善講八十八ヶ所84番。
森川家墓所のうち、初代から3代までを含む、最初の区画まで観ました。
その最初の区画の右に進んで、左、左と回ります。
森川重名墓碑の後方やや右、

生実町重俊院森川重久墓碑生実町重俊院森川重久墓碑右の墓碑2基
生実町重俊院森川重久墓碑など
日光で白く光る墓碑は、中央「杏光院殿〓江英瑞居士」、右「延寳四丙辰歳」、左「六月初四日 前出羽守重俊 三男八良衛門重久」、その右の墓碑は、中央「秋光院殿月桂芳心大姉」、左右「天和三癸亥年 九月初六日」、その右は新しい墓碑で、「慈光院殿大徳俊勝清居士 土佐守俊勝五十八才」、「長光院殿徳照妙信清大姉 俊勝室須和五十二才」、「浄光院殿清照俊尹禪居士 八郎右エ門俊尹三十才」、「清光院殿浄照徳室禪大姉 俊尹室伊知二十三才」、右枠に「森川氏五井高弐千石」、左枠に「享保十一丙午年五月十六日右四方同日自決」。(延宝4年=1676年、天和3年=1683年、享保11年=1726年) 墓碑の位置からして、初代重俊の三男重久の子が俊勝で、五井2000石を領していたが、理由不明も親子4人で自決した、大事や。けど、ほんまか?
生実町重俊院森川俊胤墓碑など
生実町重俊院森川俊胤墓碑など
この写真の右の墓碑は、中央「英雄院殿朝散大夫前出羽入道一之顕光大居士神儀」、右「延享三丙寅天正月二十四日」、左「源朝臣森川俊胤公」で、4代俊胤(森川俊胤 - Wikipedia)の墓碑。(朝散大夫=従五位下、延享3年=1746年) その左の墓碑は、中央はマンジに「慈眼院殿海印淨光大姉」、左右「享保十五庚戌年 十月二十有一日」、さらに左の墓碑は、中央はマンジに「理覺院殿本譽靈明大姉」、左右「寶暦四甲戌歳 三月十有九日」と、女性の墓碑が並ぶ。(宝暦4年=1754年)
生実町重俊院森川俊常・俊一墓碑
生実町重俊院森川俊常・俊一墓碑
この写真の右の墓碑は、中央「天亮院殿前伊州太守真元道如大居士神儀」、右「文政十皇舎丁亥季七月初三〓」、左「森川伊賀守源俊一公」で、8代俊知の養嗣子だった俊一(森川俊一 - Wikipedia)の墓碑。(文政10年=1827年) 左の墓碑は、中央はマンジに「功全院殿前朝散大夫忠林玄心大居士神儀」、右「享保十九歳甲寅六月二十八日」、左「源朝臣森川俊常公」で、5代俊常(森川俊常 - Wikipedia)の墓碑。
そして初代重俊墓碑の裏手に来ました。ここは通路の左右に順々に並んでいます。通路の左(南・重俊墓碑)側を東から順に、
生実町重俊院森川俊徳墓碑生実町重俊院森川俊位墓碑
生実町重俊院森川俊徳・俊位墓碑
最初の墓碑は、中央「玉應院殿前羽州太守真室靜繁大居士神儀」、右「文久二壬戌年九月三日」、左「源朝臣森川俊德公」で、11代俊徳(森川俊徳 - Wikipedia)の墓碑。(文久2年=1862年) 続いては、中央「謙恭院殿前羽州太守儀山公賢大居士神儀」、右「安政五戊午年六月二十二日」、左「源朝臣森川俊位公」で、10代俊位(森川俊位 - Wikipedia)の墓碑。(安政5年=1858年)
生実町重俊院森川俊民墓碑左の墓碑生実町重俊院森川俊民墓碑
生実町重俊院森川俊民墓碑など
次の墓碑は、中央はマンジに「智月院殿真譽光章大姉」、左右「安政三丙辰年 十一月六日」、その右の墓碑は、中央「雄月院殿前羽州太守徳山含章大居士神儀」、右「安政二乙卯年九月二十九日」、左「源朝臣森川俊民公」で、9代俊民(森川俊民 - Wikipedia)の墓碑。たぶん、左の墓碑の女性は戒名からして俊民の正室か。
この通路の反対側を観て戻ります。
生実町重俊院森川俊方墓碑生実町重俊院森川俊睦墓碑
生実町重俊院森川俊方・俊睦墓碑
明治の墓碑は、中央「德光院殿文譽仁興〓芳大居士」、左右「明治十年丁丑 十有一月七日」で、12代俊方(森川俊方 - Wikipedia)の墓碑。(明治10年=1877年) 安政の墓碑は、中央「雄眞院殿前朝散大夫源忠徳卿大居士神儀」、右「安政二乙卯年七月二十二日」、左「森川兵部少輔源俊睦公」で、9代俊民の嫡子(森川俊用 - Wikipedia)の墓碑でしょう。
生実町重俊院森川俊知墓碑左の墓碑生実町重俊院森川俊知墓碑
生実町重俊院森川俊知墓碑など
その右の墓碑は、中央はマンジに「仙壽院殿天譽皓月清光貞昌大法尼」、左右「嘉永元戊申歳 二月二十九日」。(嘉永元年=1848年) その右の墓碑は、中央「德隣院殿朝散大夫謙忠宗恭大居士神儀」、右「天保九竜舎戊戌秋七月三十烏」、左「源朝臣俊知公」で、8代俊知(森川俊知 - Wikipedia)の墓碑。(天保9年=1838年)
生実町重俊院森川俊孝墓碑生実町重俊院森川俊孝墓碑右の墓碑
生実町重俊院森川俊孝墓碑など
さらに右の墓碑は、中央「泰崇院殿前紀州太守貫元隆道大居士神儀」、右「天明八戊申歳六月十六日」、左「源朝臣森川俊孝公」で、7代俊孝(森川俊孝 - Wikipedia)の墓碑。(天明8年=1788年) その右の墓碑は、中央「放雲院圓月慈光大姉」、左右「寛保三癸亥年 七月廿七日」で、俊胤側室で俊常生母の女性らしい。(寛保3年=1743年)
これから墓所の東側、まだ観ていないところを回ります。
生実町重俊院森川俊令・俊盛墓碑
生実町重俊院森川俊令・俊盛墓碑
この写真の左の墓碑は、中央「不二院殿前朝散大夫…應大居士神儀」、右「天明七丁未歳五月十六日」、左「源朝臣森川…」で、葉陰で一部読めませんが、6代俊令(森川俊令 - Wikipedia)の墓碑。右は、中央「高亮院殿青巖秀雲大居士神儀」、右「天明八戊申歳六月初六日」、左「源朝臣森川俊盛公」で、7代俊孝の嫡子俊盛(森川俊盛 - Wikipedia)の墓碑。
生実町重俊院森川家墓碑逆光の2基
生実町重俊院森川家墓碑逆光の2基
この写真の2基は、逆光で黒くなってほとんど読めませんが、右の墓碑は、中央「觀…道義正大居士神儀」に「源朝臣森川俊乂公」とあるのは判りました。俊乂は、後述の俊世の子らしい。
生実町重俊院森川家墓碑逆光の墓塔
生実町重俊院森川家墓碑逆光の墓塔
この写真の墓塔は、「〓〓院殿」、「 本光明瑞大姉」、「天明七丁未年 九月廿〓三日」。
生実町重俊院森川家墓碑葉隠れの墓碑
生実町重俊院森川家墓碑葉隠れの墓碑
この写真の墓碑は、半分以上葉陰に隠れていますが、右「寛政三辛亥年」、中央「慶運院殿天瑞智…」、左「五月…日」で、女性の墓碑でしょう。(寛政3年=1791年)
生実町重俊院森川俊清墓碑など
生実町重俊院森川俊清墓碑など
この写真の左の墓碑は、中央「昌功院殿前總州太守忠峯觀義大居士神儀」、右「寛政二庚戌歳二月十三日」、左「源朝臣森川俊清公」、俊清は、後述の俊因の子らしい。右の墓碑は、中央「貞仙院殿寶鏡不昧大姉」、左右「文化十三丙子年 二月初八日」。(文化13年=1816年)
生実町重俊院森川俊央墓碑など
生実町重俊院森川俊央墓碑など
この写真の左の墓碑は、中央「寶鏡院殿心光純清大姉」、左右「享保二丁酉年 正月十有三日」。右の墓碑は、中央「見性院殿前總州太守〓指淨心大居士神儀」、右「享保十七歳壬子三月九日」、左「源朝臣森川氏俊央公」、さらに左に細字で「妙壽院殿日惠大姉元禄十六癸未年十月廿四日」。(元禄16年=1703年) 俊央は4代俊胤の次弟らしい。
生実町重俊院森川俊世墓碑など
生実町重俊院森川俊世墓碑など
この写真の左の墓碑は、よく読めないが、女性の墓碑。その右の墓碑は、中央「盛德院殿前豆州太守…大居士神儀」、右「天保六乙未年十一月廿七日」、左「源朝臣森川俊世公」、その右に細字で「〓〓院殿…」と入っている。俊世も、俊因の子で、俊清の後を継いだらしい。
生実町重俊院森川重能墓碑生実町重俊院森川重能墓碑の右の墓碑
生実町重俊院森川重能墓碑など
陰で黒い方の墓碑は、中央「桃源院殿別峯芳林大居士」、右は「正徳六丙申」だけ読めて、左はよく読めませんが、おそらく4代俊胤の嫡子だった重能(森川重能 - Wikipedia)の墓碑か?(正徳6年=1716年) 右の白っぽい墓碑は、中央はマンジに「寂照院殿眞譽冷光大姉」、左右「享保十六辛亥年 十月二十有四日」。
生実町重俊院森川俊因墓碑の左の墓碑生実町重俊院森川俊因墓碑
生実町重俊院森川俊因墓碑など
斜め右から撮影した墓碑は、中央「俊朝院殿前豆州太守泰…大居士神祇」、右「慶應元乙丑年十月六日」、左「源朝臣森川俊朝公」。斜め左から撮影した墓碑は、中央「聖諦院殿前紀州太守廓然義道大居士神儀」、右「明和元甲申歳六月廿二日」、左「源朝臣森川俊因公」。(明和元年=1764年) 俊因は、俊央の子らしい。

帰宅

今日はここまでです。本日は、番外、番外、84番、84番+生実藩主森川家墓所、他に神社3ヶ所に参りました。