(令和6年5月17日その1)
千葉寺十善講八十八ヶ所巡拝、本日は、赤井町(あかいちょう)の薬師堂(番外)から始めますが、その前に、生実町の生実神社に寄り道します。本日の出発点は、前回の最後の札所、生実町の重俊院(84番)です。
という訳で、まず重俊院へと北から来て、千葉県道66号浜野四街道長沼線の生実池交差点の北、生実池の北西角の丁字路まで来ました。ここで、池側の角に石塔があるのを発見。
生実池北西の大巌寺道標
道標の正面は「大かんじ江の道」、右面「施主 北生實村」、左面「明和二年酉八月」?(明和2年=1765年) 大巌寺は、この丁字路を左折した先にある浄土宗の大寺です。
さて、当方は丁字路直進、左手の生実池を望みます。それから次の生実池交差点左折で、重俊院前に戻ってきました。そのまま、直進(東行)して、坂をおおかた上りきると、森川氏城址の碑がありました。
森川氏城址の碑
碑の正面(西側)は「森川氏城址」、背面の碑文は、読み難い。森川氏は、生実1万石の領主ですので、普通は陣屋跡と称されるはず。
そのまま県道を進むと、すぐに生実神社前に至ります。
生実町の生実神社
生實神社、千葉市中央区生実町1550の1・1551の1合併番地。(千葉県の宗教法人名簿より)信号交差点の北西角が神社境内で、交差点角側に史跡説明板、南側に参道入口、入口の左に道祖神、入口入って右に社殿改修社務所新築記念碑、左には史跡関連の説明、参道すぐ鳥居、鳥居くぐって左に三山供養塔群、参道を進んで途中左に生実神社説明板、それから左右に境内社があって、参道の奥に拝殿です。大師堂はありません。
生実城跡と生実藩陣屋跡説明板
境内南東角( 信号交差点北西角 )に、生実城跡と生実藩陣屋跡の説明板です。これに拠れば、生実城( 北小弓城 )は、天文8年(1539年)千葉氏重臣の原胤清(はらたねきよ)が築城し、天正18年(1590年)原胤栄(たねひで)討ち死にで終わる。その後、寛永4年(1627年)に森川出羽守重俊(もりかわしげとし)が生実1万石の領主となって、生実城の一郭に陣屋を構えた。
道祖神など
道祖神石祠3基、庚申塔1基、常夜灯1基があります。庚申塔は、たぶん「延宝五年」。(延宝5年=1677年)道祖神石祠は、3基とも正面中央「道祖神」そして、右の石祠は「天明六丙午〓 七月吉日」、中の石祠の左面「文政五壬午年四月吉日」、左の石祠「天明六午 二月吉日」。(天明6年=1786年、文政5年=1822年)
社殿改修社務所新築記念碑
これに拠れば、神社の社殿は、生実藩森川家11代俊徳が、安政7年(1860年)に再建した。その社殿改修と社務所新築費用の一部は、都市計画道路建設予定地となった境内地の売却代金を当てた。
史跡関連の説明
鳥居
手前の鳥居の右柱「文化二年乙丑八月吉祥日」。(文化2年=1805年)
三山供養塔群
供養塔群の左前に、移転記念碑があります。これに拠れば、県道拡張により転入してきたとの事。
境内
説明板
これに拠れば、ご祭神は、崇道天皇( 早良親王 )や藤原広嗣など。旧称は御霊神社(ごりょうじんじゃ)。創建は不詳も、天文年間(1532年-1555年)に小弓城主の原氏が祀ったものか。生実藩森川家4代俊胤(としたね)が宝永7年(1710年)に社殿を造営。明治43年(1910年)に村内の諸社を合祀して生実神社(おゆみじんじゃ)と改称。
子安神社
ご祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。子安神社前にある手水鉢は、写真の面の中央は種字に「八幡宮御寳前」、右「元禄十三庚辰年五月大吉日」とあって、本来は八幡宮に納められたものです。(元禄13年=1700年)
八幡神社
ご祭神は八幡神(やはたのかみ)=誉田別命(ほんだわけのみこと)。
手水鉢
拝殿の左前にある手水鉢は、正面「奉納」、右面「寛政… 己未…」。(寛政己未年=寛政11年=1799年)
拝殿
神額は「生實社」。
拝殿右手
こちらの手前には庚申塔がありました。像の足元の中央「奉〓庚申…二世安樂也」、その左右「于時延宝五年 丁巳三月吉日」。
その奥の塚にも神社の石塔があります。
本殿
次回は、赤井町の薬師堂(番外)&花輪町の大師堂(番外)
次回は、赤井町の薬師堂、続けて、花輪町の花輪子安会館にある大師堂に参ります。神社の北へ進みます。