(令和5年7月2日その2)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、船尾の外川神社に寄り道の次は、戸神(とかみ)の薬師堂(55番)に参ります。
千葉県道61号船尾町田交差点の北西にある外川神社から、神社前の道路に出て右に進み、すぐの三叉路、ここは右へ、道なりで戸神川に架かる戸神橋を渡ります。この写真の左寄りの少しこんもりとしたところは戸神の宗像神社、その右にちょこんと木が出ている方向に薬師堂(55番)があります。橋を渡ったら道なりでだんだん左にカーブして、橋から約0.3km強の三叉路、ここで右折、それから約0.16km進んで、左手に印西市消防団第5分団第2部の倉庫があるところ、その左上が目的地になります。
戸神集会所
印西大師55番。(薬師堂)
消防団倉庫前から左に、上りスロープもしくは上り階段で、手前・階段上に戸神集会所、奥・スロープ右に55番大師堂と番外大師堂、大師堂の右(奥)に記念碑や石塔石塔群、階段側にも石塔石仏群があります。
55番大師堂
番外大師堂
記念碑
写真中央の記念碑は「青年館新築記念碑」、「昭和四十一年三月竣工」、左は「集会所建設記念」、「平成拾年拾弐月吉日竣工」、右は「薬師如来修復事業」、「平成二十九年一月竣工」とあって、そのまま、ここの歴史を表しています。(昭和41年=1966年、平成10年=1998年)
記念碑側石塔石仏群
この石仏は、右「奉造立十九夜供養」、左「寛文十二壬子年八月十九日」とあります。(寛文12年=1672年)この石仏は、右「日記同行…四人 十九夜同行四十八人」、左「寛延四辛未十一月吉日」とあります。(寛延4年=1751年、但し10月で宝暦に改元) 日記ってなんでしょう。十九夜とあるが像容は如意輪観音では無い。この石仏は、右「寛延四辛未天日記同行廿四人」、左「十一月吉日十九夜…人」とあって、像容含めて前述の石仏とほぼ同じです。この石仏は、中央最上部に種字、右「子安観世音」、左「文政五壬午二月吉日」とあります。(文政5年=1822年)この石仏は、右「日記同行廿四人」、左「十九夜同行四十八人」とあって、先述の寛延4年石仏2基とほぼ同じです。ほぼ同じ時期・意味の石仏が3基もあるのは、百庚申以外では、珍しい。
集会所側
こちらの石仏は、中央最上部に種字、右「寛延四未天日記同行廿」、左「十一月吉日十九夜同〓」とあって、4基めです。
それでは、次ですが、武西の安養寺(51番)に参る前に、戸神の宗像神社に寄り道します。55番大師堂横のスロープは、その先が階段になっています。この階段を上って、突き当たりを左折します。
次回は、戸神の宗像神社
次回は、戸神の宗像神社に寄り道します。