印西大師・印西地区の大師堂巡拝 寄り道 草深の稲荷神社など

(令和5年5月24日その3)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、草深仲ノ側集会所大師堂(79番)&草深丸山観音堂の続きで、観音堂入口にある六十六部供養塔2基を取り上げた後、草深の稲荷神社に寄り道します。

草深丸山観音堂入口(再掲)
草深丸山観音堂入口(再掲)
入口の右上に、六十六部供養塔が2基あります。

草深丸山観音堂入口の六十六部供養塔

草深丸山観音堂入口六十六部供養塔正面
草深丸山観音堂入口六十六部供養塔正面
草深丸山観音堂入口六十六部供養塔右面
草深丸山観音堂入口六十六部供養塔右面
草深丸山観音堂入口六十六部供養塔左の右面草深丸山観音堂入口六十六部供養塔左面
草深丸山観音堂入口六十六部供養塔
まず、右(道路)側の供養塔は、正面の中央「奉納大乘妙典日本廻國」、その左右「日月清明 天下泰平」、左面「享和三癸亥七月吉日 名主平〓右エ門」、右面「行者法堂院」とあって、普通の六十六部供養塔です。(享和3年=1803年)
一方、左の供養塔ですが、正面の中央「奉納大乘妙典日本廻國塔」、その左右「天下和順 日月清明」、左面は種字に「定教能智居士墓」、右面は長文で、

三代〓〓〓〓右衛門次男同輿右衛門、始成分家、〓年老将為回國。文化四年丁卯六月朔日首途、同五年戊辰九月至備中國矢掛宿上藥師堂、而発病寓于〓五日、同十八日没。壽六十五。則葬于同州同宿同所。

(原文は句読点なし。) 当地の方が、回国に出て客死したので、故郷に設けられた供養塔(墓)です。(文化5年=1808年) 備中国矢掛宿は、西国街道(山陽道)の宿場で、現在の岡山県小田郡矢掛町矢掛になります。
それでは、次へ参ります。この六十六部供養塔のある丸山観音堂入口を出て右、すぐの三叉路を左で、再び師戸川の谷津田の左岸を東に進みます。谷津田が右に蛇行する辺りで、

草深稲荷神社遠景
草深稲荷神社遠景
前方、左に開発予定地らしき雰囲気があって、右に緑があります。それが草深の稲荷神社の杜です。進みますと、左手に神社の階段が現れます。
草深稲荷神社前
草深稲荷神社前

草深の稲荷神社

稲荷神社、印西市草深815番地。(千葉県の宗教法人名簿より)

草深稲荷神社
草深稲荷神社
階段を上って踊り場の先に鳥居、そこからは平坦な参道の先真っ直ぐに拝殿、拝殿の前左右に石碑石塔、左に摂末社があります。なお、大師堂はありません。

鳥居

草深稲荷神社鳥居
草深稲荷神社鳥居

拝殿

草深稲荷神社拝殿
草深稲荷神社拝殿

本殿

草深稲荷神社本殿右側
草深稲荷神社本殿右側
草深稲荷神社本殿左後方
草深稲荷神社本殿左後方

拝殿前左側

草深稲荷神社拝殿前左側
草深稲荷神社拝殿前左側
摂末社が並ぶなか、陽光を浴びる白い石塔が目立ちます。これは、正式な名称はわかりませんが、草深開発記念碑といえるものです。

草深開発記念碑(仮)

草深開発記念碑(仮)南西面上部草深開発記念碑(仮)南西面下部
草深開発記念碑(仮)南西面
南西(鳥居)側には、開発を請負った15人の連判の写しらしき情報が記されています。

惣深新田開發請方拾五人
延寳元年
癸丑十一月十六日
連判
鎌谷村
 大請人元〆 源兵〓
神田佐久間町二丁目
 同〓傳兵衛
同壹町目
 八兵衛
鰭ケ崎村
 組受人元〆 濱十〓
粟〓窪村
 茂右衛門
鰭ケ崎村
 弥五兵衛

 傳兵衛
(以下略)

(延宝元年=1673年) 碑文の文字が、なんというか細くて、あとは光の加減もあってか、読みにくい。

草深開発記念碑(仮)南東面上部草深開発記念碑(仮)南東面下部
草深開発記念碑(仮)南東面
南東(参道)側、読むのを諦めた。

拝殿前右側

草深稲荷神社拝殿前右側
草深稲荷神社拝殿前右側
石碑石塔3基、写真右手前の石碑は、中央「開墾企業三百五拾年記念碑」、その左下「令和元年十月十九日」、写真中央の石碑は、中央右「開墾企業三百年」、その右「昭和四十四年」、中央左「稲荷神社改築」、その左「昭和五十三年十一月」、中央下「記念碑」、左に「昭和五十四年六月吉日建之」、写真左奥の石塔は「開墾企業二百五十年記念樹」とあります。(令和元年=2019年、昭和44年=1969年、従って、開墾企業0年は1669年=寛文9年、250年記念の年は1919年=大正8年)
それでは、次へ参ります。拝殿の右に道があり、その先に墓地や建物が見えますが、
草深稲荷神社から如意輪寺
草深稲荷神社から如意輪寺
そこが次に参る如意輪寺になります。

次回は、草深の如意輪寺&草深の大生寺

次回は、草深の如意輪寺、続けて、草深の大生寺に参ります。