(令和5年4月10日その2)
東葛印旛大師巡拝、平塚村大師その伍の続きで、いよいよ延命寺に参ります。
延命寺
真言宗豊山派、延命寺、白井市平塚939番地。(千葉県の宗教法人名簿より)
東葛印旛大師65番&84番。
下総四郡大師84番。
印西大師54番。
平塚村大師1番&88番。
本ブログ記事で取り上げた中での、下総四郡大師の最後の番付札所、東葛印旛大師の最後から2番目の番付札所、印西大師の最初の番付札所になります。
84番標識塔
敷地の南西角、塀の外、電柱の隣に、84番標識塔があります。標識塔の正面「新四國八十四番」、左面「讃州 屋嶌寺」、右面「文化五戊辰四月吉祥日 普登山延命寺」とあります。(文化5年=1808年) 下総四郡大師の標識塔です。
石柱門
84番標識塔の右(東)です。参拝の自動車もここから出入りします。山号は普登山。ここから、参道が真直ぐ伸びて、左に手水舎、その先にも門、門の先は右に鐘楼、左に観音堂(県文化財)、参道奥に本堂です。手水舎の手前に文化財の説明板、門の左に平塚村大師の記念碑など、本堂の左に印西大師の大師堂、その奥に東葛印旛大師の大師堂、本堂左奥に十九夜塔(市文化財)という配置になります。
延命寺の文化財説明板
院号は蓮華院。
平塚村大師1番&88番&記念碑
この一角、右手前と左手前に新しい石塔、中央に長文の碑文のあるもの、その奥に「南無大師遍照金剛」「平塚講中」の石碑、これの左右に古い石塔があります。
新しい石塔は、右の正面「新四國一番」、左の正面「新四國八十八番」、左の側面に「平成九年三月二十一日」とあります。(平成9年=1997年)古い石塔は、右の正面「阿州霊山寺写 新四國壱」、右の右面「大正十五」、左の左面「普登山延命寺」、左の正面は草に隠れていますが「讃州」「四國」「番」があり、「八十八」と書いてありそうな感じはします。(大正15年=1926年)新しい石塔の背面からも、平塚村大師の略歴がわかります。昔、寺田治兵衛氏が明治28年(1895年)から明治29年(1896年)にかけて四国霊場を巡拝し、これを記念して明治33年(1900年)に、平塚地区に新四国八十八ヶ所を創設したそうです。
観音堂
千葉県の指定文化財です。
www.pref.chiba.lg.jp
観音堂の右に、観音堂修復落慶法要の碑があります。
本堂
大師堂
写真左手前が印西大師の大師堂、右奥一段高いものが東葛印旛大師(兼下総四郡大師)の大師堂です。
印西大師54番大師堂
印西大師の番付札所(1番から88番まで)には、このように、岡本さんが施主となった白い番号札が付けてあります。本家四国八十八ヶ所54番も延命寺で、同名です。但し、明治までは、本家の正式名称は圓明寺(円明寺)でした。
印西組万人講供養塔
印西大師の大師堂の右に、印西組万人講供養塔があります。供養塔の正面「印西組万人講供養塔」、左面「普登山延命寺」、右面「明治六癸酉年十一月吉祥日」とあります。(明治6年=1873年)
東葛印旛大師65番&84番大師堂
東葛印旛大師の84番は、下総四郡大師のそれを引継いだものです。そして、新規追加の65番は観音堂と称していました。
大師堂の右の石碑には「東葛印旛大師(柏大師)」とあり、左には昭和49年(1974年)柏大師結願記念の修行大師像が、大師堂の背後には平成16年(2004年)東葛印旛大師結願記念碑があります。つまり、東葛印旛大師の事を昔は柏大師とも云っていたようです。
柏大師結願記念修行大師像
修行大師像の台座正面「南無大師遍照金剛」、背面「柏大師結願記念 昭和四十九年五月五日」
東葛印旛大師結願記念碑
「東葛印旛大師結願記念 南無大師遍照金剛 平成十六年五月五日 平塚大師組合」
十九夜塔
2体あるうちの左、写真では大部分が日陰になっている方が、白井市指定文化財です。説明板に拠れば、寛文10年(1670年)のものだそうです。
www.city.shiroi.chiba.jp
次回は、続・延命寺&鳥見神社、平塚村大師その漆
次回は、延命寺を出てから、鳥見神社(東葛印旛大師元52番)などに参ります。