(令和6年11月23日その2)
佐倉組十善護国講(内郷組)の札所捜索を兼ねた富里市高崎川流域の地域探訪、新橋の麻賀多神社などの次は、新橋の新橋観音堂などに参ります。
その前に、前回の記事にて後回しとした、麻賀多神社前の情報について。
富里市消防団第6分団機庫
麻賀多神社の鳥居右の建物は、富里市消防団第6分団の機庫です。さらに右には、キャロリン号乗降ポイントがありました。乗降ポイント名は新橋です。で、乗降ポイント隣の丁字路を右折(南行)します。すぐに高崎川に架かる橋に出ます。
新橋の新大橋と地蔵像
この小さな橋の名は、「しんおゝはし」とありますから、新大橋なのでしょう。
橋の南側に地蔵像があります。現地では気づきませんでしたが、写真をよく見ると、台座正面の右端に「文政十三…」とあるような。(文政13年=1830年)そのまま南へ、すぐの丁字路はなんとなく右寄り直進しましたが、すぐに左手に建物が現れます。
新橋観音堂
千葉県の宗教法人名簿には記載がありません。
大師堂(番号不明)あり。
以下の富里市Webページによれば、真乗院観音堂といい、本尊は馬頭観音だそうです。
www.city.tomisato.lg.jp
も少し進むと、こちらは建物の裏手でした。改めて、正面(東側)に回ります。
観音堂
観音堂に架けられた、この木の札には、左上に「新橋観音堂道場 瑜伽者東光寺六十九世照正」とあります。つまり、酒々井宿の東光寺が、新橋観音堂を担当しているようです。
公民館
観音堂の右に、新橋自治会の公民館です。
入口右の石碑群
境内東側入口から入って右に、石碑が2基あります。碑の正面は観音堂を向いています。いずれも比較的新しいものですが、写真右の碑には種字に「新坂東拜禮記念」、左の碑には「普門品千部供養〓」とありました。
境内左石塔石仏群
境内左側にはより多くの石碑があります。これらの石碑の後方に、古い石塔石仏が3基ありました。こちらの左は三山供養塔で、正面の中央は種字に「奉供養湯殿山発願成就所」、その右は種字に「羽黒山」、左も種字に「月山」、右面は「文化十一甲戌年 十月吉日 新橋村」など。(文化11年=1814年) 右の石仏は、正面最上部に種字、右面「文化七庚午歳二月吉日」。
大師堂
先の石碑・石塔石仏群の右に、大師堂です。幕には、中央に真言宗豊山派のマークと、右に「大師堂落慶記念」、左には「観音堂」とあります。
富里市指定文化財の石造物群
先の石碑・石塔石仏群のさらに後方に、富里市指定文化財であるところの「新橋観音堂の石造物群」( 新橋観音堂の石造物群 | 富里市 )があります。説明板に拠れば、指定文化財の石造物群は、「馬頭観音像塔3基、十五夜講塔1基、下総型板碑1基」からなるそうで、今まで取り上げた石碑・石塔石仏群は含まれません。
石造物群の右端は十五夜講塔で、右「奉供養十五夜講成就之攸」、左「延享四丁卯十月善男女」、台座「願主 浄〓」。(延享4年=1747年)
その左からは馬頭観音像塔で、最初は、中央最上部に種字、左右「文化四丁卯歳 八月大吉日」。その左2基は、写真の右の像塔の左右「延享元子天 十二月十五日」、左の像塔の左右「安永二癸巳天 八月吉日」。(安永2年=1773年)
下総型板碑は、よく判りません。
この後、観音堂を退出して、新橋地区の南側を一周しました。新橋地区の最南端では、写真右の竹藪から先、そして目の前の丁字路を右折すると、八街市八街になります。がしかし、野馬土手らしきものは見当たりませんでした。
それからまた、新大橋を渡って、新橋の麻賀多神社東の丁字路まで戻って右折です。
次回は、中沢の麻賀多神社など
次回は、中沢の麻賀多神社などに参ります。