(令和6年11月23日その4)
佐倉組十善護国講(内郷組)の札所捜索を兼ねた富里市高崎川流域の地域探訪、中沢の麻賀多神社などの次は、中沢の昌福寺などに参ります。
麻賀多神社から道路に出て左(東)へ、国道409号との信号十字路を横断直進してきました。そこから少し右に曲がった後、左にカーブする手前、左側に石塔がありました。その後ろ、民家の前にある黄色い手すりは、富里第一小学校へ続く通学路のものです。
富里第一小学校下の十九夜塔
石塔正面の中央「十九夜觀世音菩薩」、その左右「文政三年 辰二月十九日」、左面「左 さくら道 中沢〓た女人講 地主…」、右面「右 なりた道」で、道標を兼ねています。(文政3年=1820年)
さて、道を進みまして左カーブすると、今度は左手にお寺が現れます。
中沢の昌福寺
曹洞宗、昌福寺、富里市中沢593番地の1。(千葉県の宗教法人名簿より)
露天の大師像群あり。佐倉組十善護国講(中印旛組)札所。
石柱門
道路際に石柱門です。ここから山門までは少し間があります。
山門
扁額は、「安處〓」、最後が読めない。
イチョウ
山門の右、自動車出入口側に、黄葉したイチョウが立っていました。
六地蔵
山門前左右に六地蔵です。左側の石塔は、右「明和元甲申十一月吉日」、左「願主 中沢村 講中善男女」。(明和元年=1764年) 右側の石塔にも、たぶん同じ文言が彫られています。
本堂
扁額は「稲荷山」。
境内左手
境内左には、富里市指定文化財を含む石塔石仏群があり、その奥・本堂横にも石仏群などがあります。
三谷胤政供養塔を含む石仏群
石塔石仏群の左(南)には、三谷胤政供養塔1基を含む石仏4基です。説明板に拠れば、三谷(みたに)氏は千葉胤広を始祖とする。昌福寺は、慶長年間(1596年-1615年)に三谷胤政(たねまさ)が開基した。三谷胤政供養塔は富里市指定文化財。( 三谷胤政供養塔 | 富里市 )
石仏4基のうち最大のものが、三谷胤政供養塔で、右は「傳心院殿月〓霜〓禅定門」、左は「慶長十乙巳秋十月十九日 平氏三谷右衛門尉胤政」。(慶長10年=1605年) この日付は命日です。
これの左2基は、いずれも十九夜塔です。たまたま?、19日は胤政供養塔にも刻まれています。写真右の石塔は、右「奉造立十九夜講中」、左「享保二十乙卯二月吉日 中沢村」。(享保20年=1735年) 左端の石塔は、右「十九夜講中」、左「明和七寅十一月吉日」。(明和7年=1770年)
宝篋印塔を含む石塔群
三谷胤政供養塔などの右に、宝篋印塔を含む石塔群3基があります。説明板に拠れば、富里市指定文化財である宝篋印塔は、新橋字東長作から出土したもので、応永33年(1426年)の銘がある。( 宝篋印塔 | 富里市 )
説明板の前にあるのが、その宝篋印塔です。この左の石塔は、たぶん昌福寺の歴代住職を記したものでしょうか。開山、二世、三世、四世、五世、六世、七世、八世、十世、十一世、十二世、十九世、二十世、廿一世とあります。途中飛んでる?
境内左奥
大師像群
境内左奥に入るとみせて、左に切り返すと、大師像を並べたスペースがありました。像は7体、右手に五鈷杵を持っているので、弘法大師像と判断しています。
羅漢像群
境内左奥は、羅漢像群です。この写真だと、庭の写真にしか見えないな。
境内左最奥の祠
境内左最奥には、祠がありました。それでは退出いたします。
次回は、新中沢の妙見神社など
次回は、新中沢の妙見神社などに参ります。昌福寺を退出して道路まで戻り、左(東)に出ます。