(令和6年3月9日その2)
千葉寺十善講八十八ヶ所巡拝、武石町の三代王神社に寄り道の次は、武石町の真蔵院(35番)に参ります。
三代王神社の参道階段を下りて道路を左(東)へ、千葉県道57号&262号との幕張東小学校入口交差点を横断します。この交差点、県道の新道を追加したので、真蔵院への道が判りにくくなっていますが、写真の左から新道を横断した後、右の旧道との丁字路を左折して写真の奥へ進んで、台地の裾まで来て右にカーブします。そのまま道なりに進んで、左に折れたら、すぐに左手に真蔵院が現れます。
武石町の真蔵院
真言宗豊山派、真蔵院、千葉市花見川区武石町1丁目1413番地。(千葉県の宗教法人名簿より)
千葉寺十善講八十八ヶ所35番。
道路の西側が境内で、その北側に本堂、南側に一段高く浪切不動堂。本堂前の道路側入口は、右に地蔵像、左に35番標識塔と説明板、本堂右前に武石の板碑、本堂左に35番大師堂、さらに左に手水舎があって、不動堂への参道、不動堂の左には石仏群があります。
本堂側入口
山号は伽羅陀山。
入口右地蔵像
像の台座は中央「爲現當兩益也」、その左右「文化五戊辰年 十一月廿四日」。(文化5年=1808年)
35番標識塔
標識塔の正面「四國八十八ヶ所 武石村真蔵院」、右面「第三十五番土州清〓寺…」、左面「天保九戊戌…一月…日」。(天保9年=1838年)
説明板
これに拠れば、寺号は三会寺。元禄年間の再興。本尊は、千葉介常胤(千葉常胤 - Wikipedia)の三男、武石三郎胤盛(武石胤盛 - Wikipedia)が、母の菩提を弔ったという柳地蔵菩薩。その胤盛の守り本尊の不動尊を、曾孫の新左衛門長胤が正元元年(1259年)に祀ったのが浪切不動堂。
武石の板碑
碑文の一部「…大菩提也」、「永仁第二暦 季秋卅之天」(第と卅は違うか?)。(永仁2年=1294年) 千葉市指定の有形文化財です。
www.city.chiba.jp
本堂
扁額は「眞藏院」。
境内
35番大師堂
手水鉢
手水鉢の正面「奉獻」、右面「文化四丁卯年 九月吉日 七十翁帰春書」、左面には江戸の町人3名の名。
浪切不動堂
石仏群
この写真左の石仏は、中央最上部に種字、左「奉造立十九夜講八拾五人〓安樂」、右「寛保三癸」「亥天十月十九日」、台座「武石村」、中央の石仏は、中央最上部に種字、右「奉造立十九夜講結〓」、左「宝永六己丑年十月十九日」、右の石仏は、右「延宝二年」?。(寛保3年=1743年、宝永6年=1709年、延宝2年=1674年)この写真左の石仏は、中央最上部に種字、右「子安觀世音」、左「文政二卯十月十七日」、中央の石仏は、右「奉造立十九夜講爲二世安樂…」、左「享保廿年 卯十月十九日」、右の石仏は、中央最上部に種字、左右「元禄九年丙子 十月十九日」。(文政2年=1819年、享保20年=1735年、元禄9年=1696年)
常夜灯
不動堂前の常夜灯です。常夜灯の左面「享保三年戊戌十月廿八日」、正面は、えーと、これは不動明王の真言でしょうか。
それでは、次へ参るべく移動します。道路に出て左(北)に、この道が左に曲がった後の、右に曲がるその丁字路で左折し、坂を上って台地の上に出ます。その先で、県道57号&262号との信号十字路が見えるところ、左に墓地がありますが、その墓地の北西角、大きな木の根本に(人の)墓石ではない石塔石仏群がありました。
武石町台地の墓地の石塔石仏群
まず、道路際の供養塔、正面の最上部は大師像に「奉納經」、中央「西国秩父坂東百ヶ所 四国八十八ヶ所」、その左右「享和三癸〓年 十月〓〓日」、台座「武石村同行」、右面「下け〓川… 南馬加江戸…」。(享和3年=1803年)
続いて、馬頭観音供養塔、この写真中央の供養塔は、右「宝暦十一辛巳十月吉日」、左の石碑は「観世音」の下に馬の浮き彫り。(宝暦11年=1761年)この供養塔は、中央「馬頭觀世音」の下に馬の浮き彫り、台座「武石 馬持中」。
次回は、実籾の無量寺(36番&37番)
次回は、実籾の無量寺に参ります。墓地前から県道との信号十字路に出て右折(北行)します。