(令和5年4月5日その7)
東葛印旛大師巡拝、平塚村大師その壱の続きになります。
平塚の小字榎台、平塚村大師42番大師堂の前から、東へ進むと直ぐに次の三叉路に出ます。こちら、まずは「通り抜けできません」とある直進(左)の先は、左は自動車には無理そうで、右は民家に通じるのですが、右に入ってすぐ左に、平塚村大師4番の石塔があります。
平塚村大師4番
「新四國四番」
先程の三叉路に戻って左折(南東行)するところ、その左側に平塚村大師59番の石碑です。
平塚村大師59番
「四国第五十九番 金光山最勝院国分寺之写 新四国第五十九番」
ここから坂を下り、しばらく進むと、右手に平塚西区集会所です。
平塚西区集会所
東葛印旛大師掛所。独立した大師堂はもちろん、石仏石塔なども見当たりません。昭和前期には榎台堂という所に掛所があり、推測するに、小字榎台にあった榎台堂から掛所機能が移転したようです。
さらに坂を上って、小字中台( だと思う )の直進と左折の丁字路に出ます。この写真の右が直進、左が左折方向ですが、写真には写っていませんが、左折してすぐ左の塀が途切れたところにお堂がありました。
平塚中台付近のお堂
さらに北に進むと、しばらくして左手に平塚村大師17番の石塔です。
平塚村大師17番
「第十七番」
さらにさらに北に進み、家並が途切れたところ、右手に大師堂と鳥居があります。
平塚中台北の神社と大師堂
この先は、特には無さそうなので、先程の丁字路に戻って左折(南東行)します。すぐに右手に、中台薬師堂となります。
中台薬師堂
東葛印旛大師掛所中台堂。
印西大師(明治初期の)掛所中台薬師。
村大師の大師堂
敷地の北側に、8体の大師像をおさめる大師堂があります。「明治三十四年三月 土佐国大日寺写 新四國廿八番」
「明治三十四年三月 阿波国熊ヶ谷寺写 新四國八番」
「明治三十四年三月 阿波国極楽寺写 新四國二番」「四國七十四番」
「明治三十四年三月土佐国神峯寺 新四國廿七番」
「新四國三番」(これの上部は「阿波国金泉寺写」と読める気がしてきた。)「新四国〓〓〓番」
「伊〓国八坂寺 新四國四十七番」
中台薬師堂と石仏
敷地の東側、南側に石仏、墓石が並びます。さて、中台薬師堂の北東角の三叉路を、大師堂に沿って南に進むと、右手の塀の中に大師堂がありました。
平塚中台薬師堂すぐ南の大師堂
「新四國〓〓〓番」(〓〓〓は第八十かも知れない。)
さてさて、道は南から南西方向にカーブして、家並みが途切れ、左の梨畑も終わって、広めの墓地に近いところ、左に平塚村大師の石塔が幾つか立っています。