(令和5年4月5日その6)
東葛印旛大師巡拝、名内の粟嶋神社(元掛所)の次は、平塚地区だけで完結している新四国、平塚村大師を取り上げます。
平塚地区は、北が下手賀沼沿いの低地、南が印西牧に連なる台地で、南から北に舌状台地と谷津が複数伸びています。
前回の記事では、平塚西端の舌状台地、小字を小森という所に、北から入って来て、村大師48番を見つけました。
平塚村大師48番
「新四國第四十八番」
ここから南へ進み、住宅と畑地が途切れた所で、お堂と石祠がありました。
平塚村大師36番&61番
写真の右に石祠、左にお堂があります。石祠には、お供えの跡があります。「土州青龍寺寫三十六番」「豫州香園寺寫六十一番」
すぐ先で道が二股分岐しています。右に行くと、途中庚申塔はあったが大師は無いまま工業団地に出ます。ここに戻って左の坂を降りると、坂下左にお堂がありました。
平塚村大師67番
「国六十七番」
そのまま谷津を横断してまた坂を上り、小字榎台( だと思う )の坂上にて、右手にお堂を発見です。
平塚村大師87番
「(剥落)国長尾寺写 (剥落)四國八十七番 (剥落)十八年三月廿一日」
そして数メートル先の道路の反対側にも、お堂が。
平塚村大師20番
「新四国第二十番」写真の右に20番、左奥に87番です。
このまま進んだ先の突き当り丁字路、二つの角にそれぞれ何かがあります。この写真は振り返って撮影したものです。
平塚村大師79番
丁字路北側、小森から来た時の左側は79番です。大きな新しい石塔「南無大師遍照金剛 四國七十九番」手前の小さな古い石塔「讃州〓〓寺〓 新四國七拾九番」
平塚村大師79番対面の石祠
反対側のものは、何でしょうか。さて、丁字路の南西方向は、林を抜けて墓地まで行って見ましたが、特に見当たらず、戻って丁字路の北東方向に行くとこちらは直ぐに、右手にお堂、そして石塔が見つかります。ここら辺りに、(もっと大きな)お堂があったようで、もしかすると、東葛印旛大師の掛所だった榎台堂、印西大師(明治初期)の掛所だった榎大三叉(えのきあふみち)なのかもしれません。
平塚村大師73番
手前のお堂は73番です。「四國八拾八ヶ所霊〓 新四國七拾三番 讃州出釋迦写」
平塚村大師49番
その先の石塔は49番です。「新四國四十九番」
また、数メートル先の道路の反対側にお堂です。
平塚村大師42番
写真の右に42番、左奥に73番です。
次回は、平塚村大師その弐になります
平塚村大師その弐に加えて、東葛印旛大師の掛所も取り上げます。