葛飾大師巡拝 宝成寺(無番)

(令和4年2月23日その6)
下総四郡大師と葛飾大師の巡拝、廃寺万善寺(下総四郡大師30番)の次は、宝成寺(葛飾大師無番)です。
明王院坂下から葛羅の井と来た道をそのまま南に進みます。葛羅の井の説明板から約200mで、右手に宝成寺です。

宝成寺

曹洞宗、宝成寺、船橋市西船6丁目2番30号。(千葉県の宗教法人名簿より)
葛飾大師無番。(梶原石五郎氏納経帳・村上昭彦氏編・千葉文華41号より)

宝成寺入口
宝成寺入口
この写真、右の道を進むと葛羅の井、左が宝成寺参道になります。
入口すぐ右に、「成瀬氏の墓 附墓誌」説明板があります。

「成瀬氏の墓 附墓誌」説明板

「成瀬氏の墓 附墓誌」説明板
「成瀬氏の墓 附墓誌」説明板
船橋市の指定文化財(史跡)です。
www.city.funabashi.lg.jp
後ほど、訪ねてみます。また、この説明板より、宝成寺の山号は茂春山とわかります。

猫さん

宝成寺にいた猫
宝成寺にいた猫
境内にいらした猫さん、成瀬氏の墓の方へ行かれました。

境内

参道を進むと、このようになっています。

宝成寺境内1
宝成寺境内1
参道の先に山門、山門からやや左に本堂、本堂の後方に成瀬氏の墓を含む墓地があります。大師堂は見当たりません。
宝成寺境内2
宝成寺境内2

宝成寺沿革

山門左の駐車場の端に、宝成寺の沿革などを記した碑がありました。

宝成寺沿革
宝成寺沿革
これによると、開山は天正年間(1573年-1592年)、開基は葛西茂春、本尊は宝冠釈迦如来。徳川家康江戸入府後、当地が成瀬正成の所領となると、当寺(旧称法城寺)を菩提所と定めて、宝成寺と改名した、とのことです。山号は、開基者の名によるものですね。おそらくは、葛西茂春は後北条氏傘下で、開山は1590年以前でしょう。

成瀬氏の墓

墓地の中に、成瀬氏の墓もあります。

成瀬氏の墓1
成瀬氏の墓1
「成瀬氏の墓 附墓誌」新説明板
「成瀬氏の墓 附墓誌」新説明板
成瀬氏の墓2
成瀬氏の墓2
墓所の西側、山門から一番奥の墓は、成瀬之成(1596-1634)のものです。その正面「見性院殿傳翁直心居士」、背面の中央「従五位下伊豆守藤原朝臣成瀬之成墓」、その左右「寛永十一年甲戌十月二十八日」、左下に「殉死三人 平野宇平次 青木左源太 藤村仁右衛門」とあります。之成は、当地栗原藩1万6千石の藩主でした。
成瀬氏の墓3
成瀬氏の墓3
墓所の北側のうち、之成墓に近い側に、成瀬壽承の墓と、成瀬正賢(1760-1798)の墓があります。壽承の墓の正面「興雲院殿純龍普潤居士」、背面の中央「成瀬鍋吉藤原壽承」、その左右「文政六発未年二月十九日」(文政6年=1823年)。正賢の墓の正面「鳳厚院殿麟角定趾大居士」、背面の中央「成瀬信濃守藤原正賢」、その左右「寛政十戊午年三月二十二日」。正賢は、尾張犬山(藩)の世子です。墓誌によれば、壽承は、正賢の子で、享年27ということは、1797年(寛政9年)の生まれになります。壽承の名は、叔父の正壽の片諱を受けたものでしょう。
成瀬氏の墓4
成瀬氏の墓4
墓所の南側、説明板の後ろにひときわ大きな、成瀬正壽(1782-1838)の墓があります。その正面の中央「舜徳院殿泰岳道寛大居士」、左右「犬山前城主従五位下隼人正藤原朝臣正壽」、背面「天保九戊戌年十月廿七日」。正壽は、犬山(藩)の城主で、正賢の弟になります。正賢の死没時点で、兄弟の父である当主正典は数え57歳、正賢の子壽承は数え2歳、そういう年齢的な事情で、この時点で数え17歳の正壽が新たな世子となったのでしょうか。

帰宅

この近くには、万善寺関連の葛飾神社もあるのですが、今日はここまでとします。本日は、船橋市湊町、旧西海神村、旧山野村、旧印内村、旧古作村、旧寺内村、旧本郷村の、下総四郡大師4ヶ所、葛飾大師9+1ヶ所に参りました。

更新履歴

2022年4月2日18時30分、初版公開
2022年4月2日18時40分頃、「1797年(寛政11年)」→「1797年(寛政9年)」