(令和6年3月16日その3)
千葉寺十善講八十八ヶ所巡拝、大日町の大聖寺(44番)旧地&豊受神社の次は、宇那谷町(うなやちょう)の八幡神社から、隣の宇那谷町内会館にある大師堂(大聖寺)(44番)に参ります。
大日町の豊受神社( 宇那谷鹿嶋神社旧地 )の参道から道路に出て左(東)へ、その先の突き当たり丁字路、
宇那谷町の八幡神社
千葉県の宗教法人名簿には記載がありません。
参道を進んで鳥居、その先参道真っ直ぐに本殿、参道の途中右に手水鉢、左には石塔石仏群に記念碑などがあります。大師堂はありません。
入口・鳥居
古い手水鉢
石塔石仏群
本殿
記念碑
左は「八幡神社建設由来記碑」。
八幡神社建設由来
元犢橋村長湯淺義六篆額
當宇那谷區は昭和十四年軍用地として買収せられしを以て九十餘戸の區民は悲痛の想を抱き住み慣れし故郷を後に分散移轉せしも内三十有餘戸は現在地を永住の地と定め
鹿島神宮分神八幡神社を部落鎮護の神としてこの地に奉祀せり
然るに移轉怱〃の際とて社殿は假普請にして其の改築は區民の齊しく熱望するところなりしも當時わが國は國運を堵しての大戰の際なれば社殿造營の議は遂にその運に至らざりき昭和廿年八月戰雲漸く歛まり終戰の大昭は降下し民生も亦安堵せしが其の後時勢の推移に伴ひ〓らずも學校奉安殿は撤去せざるを得ざるに至れり
此に於て時の組合長外役員一同は花島育太郎氏を介し其の寄附者たる元村長湯淺義六氏に對し當區鎮守社殿として譲渡方を懇請せし處その快諾を得たるを以て區民一同欣喜措く能はずこれが改修に晨夜力を協せ旬日を出ずしてその工を竣へ茲に區民多年の待望を達し昭和廿三年九月十五日盛大に遷宮式を擧行するを得たり
今や宇那谷一角區民鎮護の社となり儼然その威容を示し永く信仰の象徴として區民崇敬の中心となるや必せり
昭和廿四年九月十五日建
千葉縣千葉郡犢橋村中學校長小菅 章撰文
〃 厚生農業協同組合連合會庶務課長中臺鴻亮拜書
(原文は漢字カタカナ書き。カタカナは平仮名に改めた。)
これに拠れば、昭和14年(1939年)に元の宇那谷地区が軍用地として買収、区民の約3分の1が当地に移転。鹿島神宮の分霊を八幡神社として仮社殿で創建。終戦後、学校の奉安殿を社殿に転用して、昭和23年に遷宮。
退出時、境内の十字路側にある砲弾が気になりました。
奉納砲弾
宇那谷町内会館
千葉寺十善講八十八ヶ所44番。(大聖寺)
敷地の奥、十字路とは反対側に44番大師堂と子安堂があります。
44番大師堂
子安堂
宇那谷町内会館
次回は、内山町の大師堂(番外)&第六大神
次回は、内山町の大師堂(番外)と、隣接する第六大神に参ります。町内会館通用口出て左(、八幡神社出て右方向、)へ進みます。