(令和6年9月26日その5)
佐倉組十善護国講(内郷組)の札所捜索を兼ねた、佐倉市の明治22年旧佐倉町地域探訪、宮小路から佐倉城内への次は、佐倉城址公園を本丸目指して進みます。
佐倉城三の丸側から、車止めの前まで来ました。
佐倉城址公園
車止め入って左に、地図付きの説明板が2枚あります。
三の丸側入口説明板
佐倉城、括弧して鹿島城とあります。佐倉城跡は佐倉市指定の史跡。
左側の説明板は、佐倉城についての説明と、絵図の写しです。これに拠れば、先ず、天文年間(1532年-1552年)に鹿島幹胤が中世城郭を築き、これを基に、慶長15年(1610年)に佐倉に封じられた土井利勝( 土井利勝 - Wikipedia )が、慶長16年から元和3年(1617年)にかけて築城した。明治から終戦までは、陸軍歩兵第2連隊、陸軍歩兵第57連隊が置かれた。
右は、現在の公園としての説明です。この先進むと、左手に空堀です。公園通路は左に曲がって、三の門跡です。
三の門跡
門の跡を通過して、通路は右に曲がりますが、曲がっての左手奥に、何かあります。接近します。
浅間神社跡・富士塚
説明板と、物見台のようなものがあります。これに拠れば、ここには浅間神社があったが、明治期に城外へ移築したという。
公園入口説明板の絵図にも、鳥居マークに仙〓神社と記されていました。今日のような天候ですと、富士山は見えません。
通路に戻ります。通路に戻って右にお茶屋「三逕亭」、その先の三叉路、直進方向の両側に、日米修好通商条約に因んで、タウンゼント・ハリス( タウンゼント・ハリス - Wikipedia )像と堀田正睦公( 堀田正睦 - Wikipedia )像が建っています。両像の間を進みますと、二の門跡になります。
二の門跡
門の跡の手前、ハリス像の背後、下へ下りる道があり、すぐ側まで空堀が来ています。空堀で進路を狭めた先に門がありました。うん?、ここからが二の丸だそうな。三の丸と二の丸の間、三の門と二の門の間は、何と称していたのだろう。
二の丸
二の丸入ってすぐ左に、正岡子規の句碑です。「常磐木や 冬されまさる 城の跡」。
反対側は、二の丸御殿跡です。これに拠れば、本丸の御殿は、徳川家康が休憩した後は常用されず、もっぱら二の丸御殿が用いられた。幕末には老朽化ため、三の丸に御殿が設けられた。
二の門からだいたい直進すると、左手に空堀です。進路の先は、橋の跡のような感じになっていて、一の門跡になります。
一の門跡
この先は本丸です。
次回も、佐倉城址公園
次回も、佐倉城址公園で、本丸からになります。