(令和6年9月26日その7)
佐倉組十善護国講(内郷組)の札所捜索を兼ねた、佐倉市の明治22年旧佐倉町地域探訪、続・佐倉城址公園の続きです。
続々・佐倉城址公園
本丸から台所門跡、二の門跡経由で国立佐倉病院跡地まで来ました。奥の佐倉陸軍病院跡の説明板を見た後、上の写真左へ行ってみます。ここら辺りは、国立歴史民俗博物館の臨時駐車場であるらしく、駐車スペースを区切る白線が敷設されています。
その先に、なにやら石を集めた所があります。
佐倉城の礎石
これに拠れば、博物館の研究棟建設前の調査で出た、旧陸軍兵舎の主柱礎石に転用されていた、佐倉城の礎石であるという。さらに平坦部を進むと、二の丸の、一の門手前付近に出そうでしたので、そこで折り返します。
病院跡地を通過して舗装通路に出ると、そこは椎木門跡でした。
椎木門跡
さてさて、ここら辺りから北側は、確かに佐倉城址ではあるが、佐倉城址公園なのかは不確かです。椎木門跡前を通過してからは、前方に博物館があるので、道は右に曲がります。曲がれば左手に博物館です。
国立歴史民俗博物館
今度は左に曲がってから車道に出ると、左手に国立歴史民俗博物館バス停です。バス停の脇に、椎木曲輪の説明板です。
椎木曲輪跡
椎木曲輪は、椎木門より北側の区画で、侍屋敷地だったところです。
車道を進むと、今度は右手に円勝寺跡・愛宕神社跡の説明板があります。
円勝寺跡・愛宕神社跡
これに拠れば、この辺りには真言宗円勝寺があったが明治の廃仏毀釈期に消滅、奥には田町の氏神でもある愛宕神社があったが転出した。
さらに車道を下ると、最後の直線部、左手に何かあります。
衛兵所跡
ここが衛兵所跡らしい。で、説明板のずっと奥にも何かあります。車道をも少し下って、そちらへの通路です。「臼杵磨崖仏」とある。どゆこと!?
国立歴史民俗博物館の臼杵磨崖仏
接近すると、複製だそうです。安心した。
車道に戻って、国道296歴史博物館交差点手前の水堀の、さらに手前の地点、右は、公園みたいです。右に行くと旧街道に出た後、田町愛宕神社への丁字路に至ります。左は、水堀の城側にも道路があります。そちらに進んで、佐倉城の外周を、左回りに回ります。幅広の道が右に折れる丁字路は、直進して細道に入り、城に併せて緩く左にカーブしてから、右に曲がって丁字路左折すると、左手に水堀が現れます。続いて右に御三階駐車場、ここからは、以前に鏑木町の周徳院(六崎組十善講18番&58番)へ参る時に通った道になります。そして、水堀に併せて左に折れて、次も同様に右に折れるところ、左側が出丸の入口になります。
本丸北西の出丸
入りまして、小さな橋を渡って、門に出ますが、この門は、元は佐倉城の薬医門と伝わる門です。
伝佐倉城薬医門
門入って左に説明板です。これに拠れば、元は佐倉城内の何処かの門で、廃城後に移築され、昭和37年(1962年)甚大寺に移築、昭和58年寺より佐倉市に寄贈されて移築。
門から出丸に入って、通路はすぐに右に折れて、その先は、またすぐに上りとなっているように見えました。反転して、門から道路に出てそのまま直進します。水堀に沿って南南西から南東方向にカーブした後、別の出丸の外側を回って、水堀の終わるところ、突き当たりで左で、出丸に入れます。その突き当たりは右へ、水堀跡のストレートを進みます。この直線の左(城内)側、桜堤のさらに内側は、昔は鷹匠町、軍用地としては南射撃場でした。その内側に入って南東方向に進み、突き当たりで左折します。
すると右に、ひよどり坂上り口です。坂上には、鏑木町の大聖院(六崎組十善講17番&61番)などがありますが、坂には入らずに進みます。しかし、こちらも急坂となって、上り切ると、佐倉市民体育館西側に出ました。これで、城内(町)をだいたい一周したことになります。
帰宅
今日はここまでです。本日は、佐倉市の田町、宮小路町北部の宮小路、城内町( 佐倉城跡 )、そして鏑木町の一部を廻り、神社2ヶ所、寺院1ヶ所に参り、佐倉城址公園も巡りました。しかし、大師堂は発見できませんでした。