2023年遍路第1日その6、天皇寺(79番)を出て白峰宮(元79番)の参道を下りたところから。
遍路第1日(平坦ステージ)
日付 : 2023年10月17日
天皇寺&白峰宮から崇徳天皇関連史跡へ
天皇寺(79番)と白峰宮(元79番)の次は、讃岐国分寺(80番)である。がしかし、真っ直ぐ国分寺には向かわずに、崇徳天皇関連の史跡を2ヶ所訪ねてみる。
そもそも、遍路の88ヶ所の特色として、以下の点を挙げたい。
- 四国各国の国分寺が4ヶ所(4ヶ国)全て札所になっている。
- 四国各国の一宮が、全て、というには注釈が必要だが、一応全て札所になっていた。但し、神仏分離によって今は札所から外れている。
- 崇徳院と関係の深い2ヶ所、天皇寺(79番)と白峯寺(81番)が札所になっている。しかし、四国で崩じたもうひとかた、土御門院に深く関係する札所は無い。
崇徳院関連札所の存在は、札所88ヶ所の確定が平安末期以降である事を示唆する。土御門院関連の札所が無いのは、その時点で札所が固定化されていた、というよりも、崇徳院の持つ怨霊パワーが、土御門院には無いからだろう。
というわけで、時間に余裕のある範囲内で、この付近にある崇徳天皇関連の史跡を幾つか訪ねてみたかったのだ。
白峰宮の参道から北に曲がって、JR予讃線と香川県道33号高松善通寺線を渡り、なおも北に進むと、田畑の中に姫塚が現れる。
姫塚
この碑に見える松平頼明は、高松松平家当主で伯爵だった方である。[松平頼明 (伯爵) - Wikipedia]ここは崇徳院が当地で儲けた皇女の塚であるという。
姫塚から北の県道16号高松王越坂出線に出て右へ、綾川を渡ると、すぐ左に雲井御所跡が見える。この写真の十字路を左折し、そこからは案内標識に従って堤防道から右に下る。堤防下で右に曲がって、その先に雲井御所の側面となる。跡地の中に入る。
雲井御所跡
故鳥羽院の側近達が引き起こした(、と私は思っている、)保元の乱に敗れて、崇徳院は讃岐に流された。最初の数年、この辺りに仮住まいし、それを雲井御所という。但し、御所の所在地は不明だったのを、高松松平家の松平頼恕[松平頼恕 - Wikipedia]が当地と定めた様である。その松平頼恕公が建てた碑で、「天保六年歳次乙未冬十二月」のもの。(天保6年=1835年) 一部が欠けているが、全体としては非常に状態が良い。
御所跡敷地の西側に、中川観音堂がある。最後に南側から撮影。ここからは綾川右岸(東岸)を上流(南)へ、県道33号に出て左(東)に、少し登ってから左の旧道に入って行くと、左手に讃岐国分寺となる。一旦、今日の宿である「旅館えびすや」の前だと思う所までいってから、引き返して山門前に駐輪。
讃岐国分寺
真言宗御室派、国分寺、高松市国分寺町国分2065。(香川県の宗教法人名簿より)
四国八十八ヶ所80番。
sanukikokubunji.jp
ja.wikipedia.org
山門
撮影時刻は15時45分。山号は白牛山。
山門前左の石塔
山門の前、左の常夜灯の更に左にある石塔、これには「右 一の宮」とある。
縁起略記
山門前左、常夜灯の後方に、縁起略記の説明板がある。国分寺なので聖武天皇の勅願というのは誰もが知るところであるが、ここでは、天平13年(741年)行基の開基と伝わる。
ここには明記されないが、この讃岐国分寺を含む一帯は、国の特別史跡に指定されている。
www.city.takamatsu.kagawa.jp
山門を入って、真っ直ぐ進んで本堂でお勤め、そこから右斜め後方に進んで、ん?、納経所と大師堂が同じ区画なのか。お勤めして納経印を頂き、撮影開始となる。
大師堂
左の多宝塔が大師堂で、右の建物が納経所。この左に修業大師像がある。
修業大師像
本堂
本堂の右にあるのは春日神社。本堂の右前に説明板がある。本堂と、本尊の十一面千手観音像は、共に旧国宝、現在は国の重要文化財となっている。
[国分寺本堂|高松市]
[木造千手観音立像(国分寺)|高松市]
国分寺由来
本堂前から山門に戻る途中、国分寺由来の説明板があった。これに拠れば、山号、院号は、白牛山(はくぎゅうざん)、千手院(せんじゅいん)。
鐘楼・梵鐘
そして、鐘楼がある。この梵鐘も、旧国宝、現国指定重要文化財である。
[銅鐘(国分寺)|高松市]
再び山門
ここも大草鞋。撮影時刻は16時20分。この後16時23分に移動再開で、滞在時間は約38分。
ちょっと迷ったが、宿に入る事にした。
本日の走行記録
トータル43.87km、移動平均時速15.0km/h、総活動時間8時間34分30秒、これらには境内など歩行部分を含む。
* 次回は、遍路第1-2日、初日の宿と白峯寺(81番)
次回は、初日の宿について触れた後、翌日は白峯寺に参る予定です。