(令和6年8月27日その7)
佐倉組十善護国講(内郷組)の札所捜索を兼ねた、佐倉市の旧内郷村地域探訪、土浮の正福寺などの次は、萩山新田の諏訪神社などに参ります。
千葉県道65号佐倉印西線からローソン佐倉岩名運動公園前店に寄り道して、ローソンの北側の道を右に出ます。ちょうど白翠園前バス停があります。すぐに突き当たり丁字路があって左(北北東)へ、次の交差点は、右だと岩名運動公園ですが、ここは直進します。次は、左手に佐倉市消防団第1分団6部の倉庫(新築)です。なおも直進して、萩山新田(はぎやましんでん)地区に入りました。萩山新田は、江戸時代初期に佐倉城が整備される過程で立ち退かされた人々が移住して、飯野村から分割されてできた村です。
そして、とある十字路の左角に、石仏2基があるのを発見しました。
萩山新田南の石仏
左(南)の石仏は、中央最上部に「爲」、右「奉造立石佛尊一躰」、左「于時元文二丁巳天十一月十九日 當邑〓〓〓念佛講中」。(元文2年=1737年) 右の庚申塔は、右面の中央「奉造立青面金剛爲二世…也」、その左右「享保七壬寅天 十月」、左面「施主萩山新田〓 同行〓〓人」。(享保7年=1722年)
そのまま北に進んで、左に墓地のある所で右に折れると、今度は左にお屋敷の気配、右手は畑地、それから突き当たり丁字路では右に入ると、また別の墓地です。
萩山新田南東の墓地
この墓地の一角に墓地改脩記念碑がありました。さて、この墓地の地蔵像から右に進みますと、先ほどの石仏のある変則十字路に出ます。それを右折(北行)して、最初の墓地のところ、先ほどはここで右折しましたが、今度は墓地に寄った後、直進します。
萩山新田一丁物地区墓地(仮)
「一丁物地区墓地」というのは、ここで仮に付けた呼称です。この墓地にも、墓地改脩記念碑がありました。2基の記念碑、正面は両者同一、背面も碑文は同じで、下の部分のみ違うようです。で、こちらの記念碑の背面下部には「一丁物地区」とあるが、先ほどの記念碑背面は、その部分が写真に写っていない。
でもって、碑文に拠れば、昭和59年(1984年)の時点で「四百年に垂んとする歴史を有する」そうです。
そのまま北に進むと、下り坂になって集落を抜けます。( 萩山青年館は、後日再確認する予定。) 坂下には、萩山バス停です。この先の、今は田圃になっているところから、対岸への渡し( 仲井渡 )が出ていました。さて、このバス停前の丁字路は右折しました。
右折しての左手前方は、田圃のはるか向こうに順天堂大学です。一方、右手には次の集落、です。この辺りは、古い地図には瀬谷田という字が表記されていますが、新しい地理院地図には瀬谷田の記載がありません。また、萩山新田と飯野とが入り組んでいるようです。ここでは右に入って南へ進み、坂を上ります。
坂上の十字路、ここは直進、舗装路が行き止まりになったら、右(西)を向くと、諏訪神社の参道でした。
萩山新田の諏訪神社
諏訪神社、佐倉市萩山新田475番地。(千葉県の宗教法人名簿より)
参道を進みます。
境内社
鳥居の少し前、右手に石祠が2基、手前の石祠は「道祖神」。
鳥居
常夜灯
鳥居前に一対の常夜灯、本殿側の面に「常夜燈」、それの右面「天保九戊戌歳〓四月吉日」(〓は「正」か?、天保9年=1838年)
手水鉢
手水鉢の正面「奉納」、右面「文化三 丙寅 歳 八月 〓〓」。(文化3年=1806年)
三山供養塔群
鳥居くぐってすぐ右手に三山供養塔群、この中の左端の3基、手前の供養塔は、正面の中央「湯殿山」、その左右「月山 羽黒山」、右面「天保十四年卯七月日」。そのすぐ後ろの供養塔は、正面の中央「湯殿山」、その左右「月山 羽黒山」、右面「文政十三庚寅十月吉日」。(文政13年=1830年) 一番後ろの供養塔は、正面上部の中央「湯殿山」、その左右「月山 羽黒山」、正面下部は大日如来坐像、正面右端「寛政〓乙卯年」。(寛政卯年=寛政7年=1795年)
拝殿
拝殿の内部に神額、「諏訪大明神」。
本殿覆屋
次回は、飯野高座木の大師堂など
次回は、飯野の高座木地区を廻ります。参道を戻って、十字路は右折(東行)します。