(令和6年12月11日その2)
葛飾大師などの巡拝を兼ねた(市川市)旧行徳町南部の地域探訪、上妙典(妙典1丁目)の八幡神社などの次は、下妙典(妙典3丁目)の春日神社などに参ります。
八幡神社から成田道を南に進んで、下妙典の清寿寺と春日神社の入口前まで来ています。この辺りは昔の下妙典村になります。下妙典村のうち、成田道の周辺が居村(本村)で、これに高架を走る地下鉄東西線までの区域を加えたのが、おおよそだいたい市川市妙典3丁目になります。下妙典村の領域は、居村や現在の市川市富浜1丁目付近から南東方向に、現在の市川大橋の下流まで延びていましたが、一部は江戸川河川敷になりました。他にも、前回記事で述べたように、市川市南八幡5丁目の西側、市川市平田から市川市大州にかけての細長い区画に、上妙典村と併せて飛び地を持っていました。(Ref. 小字マップ、及び、関東小字地図)
それでは、右手前の道に入ります。
下妙典(妙典3丁目)の清寿寺
単立、清寿寺、市川市妙典3丁目6番12号。(千葉県の宗教法人名簿より)参道を門前まで進みます。山号は顕本山。門前右に説明板です。これに拠れば、創立は慶長2年(1597年)、日蓮宗単立。
こちらもまた、日蓮さんの系統のお寺さんですから、弘法大師関連は無いので、ここまでとしました。
この門前にて左を向くと、隣の春日神社境内に入れます。
下妙典(妙典3丁目)の春日神社
春日神社、市川市妙典三丁目6番12号。(千葉県の宗教法人名簿より)
拝殿の少し前から参拝開始です。
手水鉢
拝殿前参道の右が手水舎です。手水鉢の正面「奉納」、背面はたぶん「天保十己亥年 九月吉日」ではないか。(天保10年=1839年)
常夜灯
手水舎の次に、一番古そうな常夜灯が1基のみあります。正面( 手水舎側 )には文字の痕跡があるがよう読めず、背面( 拝殿側 )は「寛文十庚戌〓 九月吉祥日」。(寛文10年=1670年)
さらに拝殿寄りに、一対の常夜灯です。常夜灯の正面「奉納御神燈」、右の常夜灯の背面「文化四年」、左の背面「卯十二月吉日」、台座の背面「氏子中」。(文化4年=1807年)
拝殿前説明書き
拝殿前右に、説明書きです。これに拠れば、昔、妙典村が上下に別れた時に、下妙典村の村人が祀ったのが始まりである、徳川期には製塩で村は栄えた、嘉永7年(1854年)に本殿を大改修した、後藤弥太郎の彫刻が本殿を飾る。
拝殿
神額は「春日神社」。
拝殿前面左に、本殿彫刻案内の張り紙です。
本殿
ここから、正面入口まで進みます。
社務所兼妙典三丁目自治会館
拝殿の左には、社務所兼妙典三丁目自治会館があります。
イチョウ
境内中央、参道の両脇のイチョウ。
鳥居
鳥居は、比較的境内中寄りにあります。鳥居の神額も「春日神社」。
高札型説明板
境内の北東端、道路際に高札型の説明板です。こちらに拠れば、名主の藤左ヱ門が奈良の春日神社に詣でて御分霊を勧請したと伝わるが、安政3年(1856年)の大津波で古い記録流出のため詳細不明。
最後に、成田道から神社全景を撮影して、退出です。ここから、写真の左(南)に成田道を進みます。妙典駅入口バス停のすぐ先、一時停止の十字路を右折、すぐ隣の千葉県道6号市川浦安線バイパスとの信号十字路、横断直進すると、成田道には寺町通りという現代名が付きます。そのまま西に進んで、右手に徳願寺(葛飾大師3番&8番)が現れると、本行徳に帰還です。
次回は、本行徳三丁目の八幡神社など
次回は、本行徳三丁目の八幡神社などに参ります。寺町通りから権現道に入ります。