(令和6年10月15日その4)
佐倉組十善護国講(内郷組)の札所捜索を兼ねた、酒々井町の地域探訪、国史跡本佐倉城跡その3の続きになります。
本佐倉城跡(その4)
本佐倉城跡の主要部(内郭群)も、郭単位だと奥ノ山(II郭)と倉跡(III郭)を残すだけになりまして、城山(I郭)から回って奥ノ山の南東側に出ました。
奥ノ山(II郭)
説明板が出迎えます。その左には「奥ノ山」の標識。奥ノ山の西側、一段高くなったところ、幾つか標柱もあるようです。その中で北側の標柱は「妙見宮跡」。その南には、「房総の魅力500選 本佐倉城跡(根古谷城)」の標柱。なお、根古谷(ねごや)とはこの辺りの小字でもありますが、下総では中世の城跡近くによくある地名でもあります。
さらに南には、「奥ノ山」の標柱。なお、この一段高いのは、奥ノ山西側土塁です。ここから西側、一段低くなっているのが倉跡(III郭)になります。
倉跡(III郭)と妙見神社への道
倉跡に下りて南を向くと、木陰に何かありまして、標識は「妙見神社」とあります。その先の細道に入ると、竹林の斜面を折れ曲がった階段で下りるようです。地図を見ると、妙見神社へは麓からの方が良さそうなので、今は引き返します。
倉跡に戻りまして、西を向くと、「倉跡」の標識の右隣にも、「ポイント11 倉跡・セッテイ空堀」の標識です。ポイント11方向へ、倉跡を西に横断します。
倉跡西端にて、木の下に標識があり、接近すると、「空堀」の標識と、管理用階段の注意書き、その下に空堀です。管理用階段下の空堀は、少し前に通ってます。
反転して、元に戻るのではなく、その左(北)よりに、倉跡を横断して、その北東端へ、ここには「倉跡」の標柱があります。これより下(北)側にIV郭がありますが、両者には、はっきりとした境界は見当たりません。
諏訪神社への道
倉跡・IV郭の東側通路を下ると、左手遠くにまた標識を発見。そちらへ進むと、左手「空堀」、右手「諏訪神社入口」の標識ですが、スズメバチの警告もあります。引き返しました。
一旦城外へ
この後は、東山馬場(V郭)まで下りて本佐倉城跡の主要部(内郭群)を退出しました。
それから、城跡の北東、カンカンムロ横穴群の近くまで行って、本佐倉城跡を撮影、再び城跡の東側入口丁字路に戻ってから、城跡外周を右回りで回ります。すぐの地点、前方(南)には、外郭の向根古谷(IX郭)が見えます。向根古谷の台地には上本佐倉の神明大神社が、その東側の麓には本佐倉の光徳院(六崎組十善講40番)があります。
外周を進んで、南側の駐車場、大型車両の旋回場まで来ました。その先(西)に、大型の説明板が2枚、その西隣が妙見神社入口となります。右の説明板は、詳細な地図、ただし大型車旋回場などは記載無し。左の説明板は、航空写真、ただし史跡公園整備前。これに拠れば、本佐倉城は、下総守護の千葉氏が、文明年間(1469年-1486年)に築城し、天正18年(1590年)まで居城した。
下総守護千葉宗家は代々千葉荘・猪鼻城を拠点とし、一族が下総各地に展開していましたが、享徳の乱( 関東公方足利成氏と関東管領上杉憲忠・房顕・顕定の争い )に巻き込まれて没落へ、新たに宗家となった千葉(岩橋)輔胤・孝胤父子が、自らの勢力圏に築いたのが(本)佐倉城です。その後は、紆余曲折の後、小田原北条氏の勢力下に入って、運命を共にすることとなりました。
以後、徳川家康・秀忠によって何人かが(本)佐倉に封じられた後、土井利勝が(新)佐倉城を築き、本佐倉城は廃城となりました。
この航空写真を使った説明板の左に、「妙見神社」の標識が見えます。そちらに進みます。
次回も、本佐倉城跡
次回も、本佐倉城跡です。妙見神社、弁天社、浅間神社などに参ります。