(令和5年5月2日その7)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、笠神の大師堂2ヶ所&笠神の蘇羽鷹神社の次は、笠神の南陽院(44番)などに参ります。
蘇羽鷹神社の参道から道路に出て左(東)に進み、約0.13kmの三叉路、ここからは左に旋回します。ここから往年の堤防上の道となりますが、三叉路から約0.1km弱で、左の生け垣の切れ目に、大師堂があります。
笠神船戸の大師堂
印西大師の明治初期の史料には、この辺りに、ふなとつゝみ(船戸堤)の大師堂があったと記されています。この辺りの小字は船戸であると地理院地図にあり、ここは旧堤防上ですから、関連があるのかもしれません。ないかもしれませんが。
次へ参ります。そのまま道を北に進み、最初の三叉路は直進、次の三叉路、ここを左折し、堤を下ります。次の十字路、向こうに見えるのが南陽院です。
笠神の南陽院
天台宗、南陽院、印西市笠神726番地。(千葉県の宗教法人名簿より)
印西大師44番。
六阿弥陀の何番か。
参道を進むと階段そして門があり、その先の境内は、まず右に44番弘法大師堂、その先、右に本堂、左に元三大師堂があります。本堂と弘法大師堂の間に新四国霊場勧請記念碑、弘法大師堂の右に印西大師関連の弘法大師供養塔があり、元三大師堂の左から進むと、階段の先にもお堂があります。
門
門前の石塔
門の右前に石塔があります。読めぬ、あ、苔のある部分が「弥」に読めて、「六阿弥陀如来」とありそうです。右に「番」も見えました。
44番弘法大師堂
弘法大師供養塔
供養塔の正面「南無大師遍照金剛」、左面は光の加減や草のため「先達 〓神村 南〓〓 〓林村 西福 萩原村 龍」までです。
元三大師堂
本堂
新四国霊場勧請記念碑
碑の最上部「新四国霊場勧請記念碑」、下段「笠神 南陽院 平賀 來福寺 師戸 廣福寺」、台座「印西組信徒」とあります。そして主たる文面は、
東都金光山主僧正遠賀亮中篆額
印西新四国霊場、享保六年、笠神邨天台宗南陽院臨唱法印、所勧請也。抑印西之地、蟠刀川旛湖間、古来水旱両禍数到度、民不能安堵。法印、夙憫之発救禍之念、祈仏天冥護。一夜観霊夢、於是乎踊躍、而単身飛錫于四国地、親訪弘法大師遺跡、手収取其霊砂。帰山後、謁泉倉寺演順貫主、詳陳其宿志。貫主諭曰、弘法大師言家祖也、須与言家浄侶協力。師乃図之、平賀邨来福寺頼如、師戸邨広福寺宥伝、両師。〓師斎語霊夢示現、悦其値遇心融身、会誓共同荷負。法印、以為世尊託生在中天竺、是則尚中謂也。宗祖所立中道実相妙旨亦在此。移一国一場為根幹以象四方鎮護、故配第一番于泉倉寺、為究竟首位敬本寺也。而置遍路首于三箇寺、擬空仮中三諦霊場頒布、各取其中。以全霊場中位四十四番配自坊、自其四十四番至八十八番、以中位六十六番配来福寺、更自六十六番倒算至第一番、以中位三十三番配広福寺。互貫連如鎖、示三寺一体不可離之意。法印用意可見其甚深也。爾余霊場、概依地名景域相似仏名寺号相等、勧請満了。伝聞最初遍路自第一番順次納札復始而営結願、是則印西大師巡行嚆矢也。爾来幾変遷、文化午戌之交浄城有火、衆度奉仏念漸衰、我大師巡行徒絶其跡。法孫孝祐、痛惜先師偉業殞滅、再興発願誘導信徒、令各唱詠歌和讃遍路。祈誓数年、信徒益多、于茲始建立八十八軀石像、得拝発願成就曙光。于時文政十三庚寅中冬也。今茲昭和乙亥、四方信徒挙将伝其功績於不朽、建豊碑于慈眼山頭、録其事績為記念云爾。
北総処士 岡田静雄撰文弁書
南陽院主 杉本亮舜代 建之
昭和十年十一月
(原文に句読点は無い、なので間違って追加しているかもしれない。旧字体の多くを新字体に変換した。〓は「両」に見えるが、2字前の「両」と字体が異なる。「嚆」の字は、口へんではなく矢へん。享保6年=1721年、文化午年から戌年=文化7年から11年=1810年から1814年、文政13年=1830年、昭和10乙亥年=1935年。)
境内南方
元三大師堂の左を行くと、階段があって、その上にお堂があります。何のお堂かは判りません。このお堂のあるスペースに、六十六部供養塔がありました。
六十六部供養塔
供養塔の中央「奉納大乘妙典六十六部日本廻國」、その左右は、上段「天下泰平 國土安全」、中段「寛政六寅天 十一月吉日」、下段「行者圓心大徳 當村吉右衛門」とあります。(寛政6年=1794年) おそらく、吉右衛門さんが施主で、行者を雇って廻国納経をしてもらい、その成就の記念としたものでしょう。(円心大徳の俗名が吉右衛門という解釈も成り立つのか。)
次回は、押付の薬師堂(83番)など
次回は、押付の薬師堂(83番)などに参ります。参道・来た道を戻り、突き当たり三叉路を左折します。