(令和5年5月2日その2)
印西大師・印西地区の大師堂巡拝、竜腹寺(21番&39番)の続きから始め、竜腹寺の日枝神社にも参った後、中根地区に参ります。
印西市の竜腹寺
天台宗、龍腹寺、印西市竜腹寺626番地。(千葉県の宗教法人名簿より)
印西大師21番&39番。
玄林山龍腹寺再建記念碑
- 当山、旧慈雲山延命院勝光寺と号〓
- 平城天皇の勅願に依り、大同二年(807年)慈観上人開創に係る
- 本尊延命地蔵尊は弘法大師将来の秘仏、御前立勝軍地蔵尊は大師の〓刻なり。
- 〓和四年(承和4年=837年?)七堂伽藍全備の寺中二十五坊管下七十五箇寺輪〓〓〓北総屈指の巨刹たり。
- 延喜十七年(917年)奉勅降雨の法を修して霊異あり。因て寺号を天龍山龍腹寺と改む。
- 天慶三年(940年)密勅を蒙り、将門調伏の法を修す。
- 保安三年(1122年)国司千葉常重、勅学講堂を再建。爾後千葉氏代代大檀那となる。
- 治承四年(1180年)源頼朝、当寺に参籠、大般若経を奉納し、後更に寺領を賜う。
- 寛喜三年(1231年)千葉氏〓髪供養の為の如意輪堂を建立。毛堂と俗称す。
- 建長年中(1249年から1256年)北条時頼登山。
- 弘長元年(1261年)常行念仏堂を建立し改修普門坊を時斎庵と命名す。俗に時屋と呼ぶ。
- 正安二年(1300年)鐘楼を再建す。
- 嘉吉二年(1442年)千葉胤直、大日堂五重塔を再建、又大般若経を奉納す。
- 明応(1492年から1501年)以来、北条早雲、威を関東に振う。当山覚道、武に長じ、千葉氏を〓〓て之を伐たんと謀り、兵を寺に聚む。
- 永正四年(1507年)秋八月十九日北条氏の遣兵、夜に乗じ火を放ちて覚道を〓し、本堂二王門太子堂を除き悉く灰燼に帰せしむ。
- 千葉氏深く此荒廃を嘆き、天文十九年(1550年)諸堂を再建すと雖も、比旧十之一にも及ばす。
- 文政元年(1818年)寺僧火を〓し諸堂復〓失す。
- 元治元年(1864年)諸堂を再建せしも、僅に名跡を続くのみ。
- 加之時代は変異修補亦容易ならず。荒廃に委して星霜八十有余年。
- 偶、大東亜戦禍により成田山深川不動堂焼失再建の議あり。当地蔵堂譲渡を懇望い、乃ち檀信熟議快意寄進の事に決し、昭和廿三年(1948年)七月完納。次で同廿四年三月当山本堂改築起工、廿五年二月竣成、同三月入仏式を厳修すと云爾。
- 昭和二十五年十二月 大本山成田山新勝寺貫首大僧正 荒木照定題額 成田図書館長 今〓慈海撰弁書
(原文のカタカナは平仮名に、旧字体は一部新字体に改め、句読点や括弧付き注釈を追加した。原文に句読点は無いし、箇条書きでもない。解読は帰宅してからです。その場だと、読んでる内に見失ってしまう。なので、写真で読めない字・あやふやな字の再確認ができません。意外とカタカナが不明瞭。)
今、東京都江東区富岡にある深川不動堂の旧本堂は、元はここ竜腹寺の地蔵堂だったもので、戦災で焼失した旧旧本堂に替えて移転したものです。
あと、竜腹寺は天台宗なのですが、この碑文を書いた成田山新勝寺は真言宗なので、何だか錯覚してしまいます。
さて、印西大師の札所としての竜腹寺(21番&39番)は、まず本家四国八十八ヶ所の21番太竜寺とは竜の字が共通し、本家39番の延光寺の延の字が、竜腹寺本尊の延命地蔵の延と同じです。
地蔵堂北西側の石塔石仏
それでは、地蔵堂や鐘楼の東にある日枝神社にも参ります。
竜腹寺の日枝神社
日枝神社、印西市竜腹寺632番地。(千葉県の宗教法人名簿より)
東向き参道上に鳥居、その先真っ直ぐに社殿、その回りに摂末社など、社殿の右に国有境内地譲与記念碑があります。
参道・鳥居
社殿
国有境内地譲与記念碑
- 日枝神社 五五二坪 立木共 昭和廿五年三月三日
- 龍腹寺 二、三六九坪四七勺 立木共 昭和廿五年八月廿二日
- 地蔵堂 二、六六二坪一三勺 立木共 昭和廿五年八月廿二日
とあります。
摂末社
それでは、次へ参ります。地蔵堂から左(西)に、千葉県道65号に出、おっと、寺務所だと思っていた建物は、竜腹寺青年館でした。
竜腹寺青年館
では改めて、次へ、中根の福聚院(14番)を目指します。方角は北東になりますが、道がよくわからないので、先ずは西に県道を進みます。約0.35kmの十字路を右折、そこから約0.55kmの十字路、
本埜小学校前の石塔群
三叉路自体は左に、センターラインに平行に進んで、小学校を通過し、林の中に入ると、進行方向に中根の鳥見神社となります。
次回は、中根の鳥見神社&福聚院(14番)
次回は、中根の鳥見神社に寄り道した後、中根の福聚院(14番)に参ります。