(令和4年9月10日その2)
東葛印旛大師巡拝、上柳戸(柳戸)の弘誓院(83番)の続きから始めて、その後に、隣接する天満宮と熊野神社に参ります。
弘誓院の続き
真言宗豊山派、弘誓院、柏市柳戸612番地。(千葉県の宗教法人名簿より)
東葛印旛大師83番。
下総四郡大師83番。
下総三十三観音33番。
島大師33番&36番を確認。
弘誓院境内の記事については、東端のエリアを残しています。弘誓院境内の東端にある木の根本に、大きな下総四郡大師(兼 東葛印旛大師)83番標識塔と、小さな島大師33番標識塔があります。
83番標識塔&島大師33番標識塔
83番標識塔の正面「新四國八十三番」、右面「讃州一ノ宮」、左面「文化五戊辰三月吉日弘誓院」とあります。(文化5年=1808年)
島大師33番標識塔の正面「新四國三十三番」、左面「高福寺移地蔵」、右面「文化十酉年」とあります。左面の地蔵とは、弘誓院延命地蔵尊のことでしょうか。
この時点での疑問
下総四郡大師は文化5年頃には成立、一方の島大師は文化10年の成立で、島大師のエリアである、柳戸村、片山村、手賀村、布瀬村の4ヶ村には、下総四郡大師の以下の札所が設置済み:72番、75番、77番、79番、83番、85番、86番。 これらの下総四郡大師札所は、島大師に同一番号で引継がれているのか否か。
下総四郡大師から島大師への引継ぎがないとすれば、弘誓院の観音堂( 本堂 )の島大師での扱いはどうなっているのか。
また、島大師エリア内にて文政期に設置される東葛印旛大師の新規札所( 11 番、13番、21番、40番、56番、62番、64番 )には、島大師側の事情が反映されたのか否か。
そんな事を考えつつ、次の札所( 掛所大野鯖大師 )へ移動しようとしてすぐ、島大師の別の標識塔を発見してしまいました。
柳戸弘誓院横の天満宮
島大師35番を確認。弘誓院の墓地と熊野神社に挟まれた狭い敷地、その奥に小さな祠があり、道路際右の木の根本に島大師35番標識塔があります。
島大師35番標識塔
標識塔の正面「新四國三十五番」、左面「土州清瀧寺移天満宮」、右面「文化十酉年」とあります。おそらく、奥の祠は天満宮なのでしょう。
天満宮祠
この隣の熊野神社にも、島大師の標識塔があります。
柳戸の熊野神社
熊野神社、柏市柳戸614番地。(千葉県の宗教法人名簿より)
島大師37番を確認。4段しかない階段を上って右の所に島大師37番標識塔、階段の先はすぐ鳥居、その先すぐ拝殿があります。
島大師37番標識塔
標識塔の正面「新四國三十七」、左面「土州五社移熊野三社」、右面「文化十酉年」とあります。
手水鉢と灯篭
それぞれ、手水鉢には「元治元年子十月日」、灯篭には「文政二卯九月吉〓」とあります。(元治元年=1864年、文政2年=1819年)
柳戸弘誓院付近の島大師まとめ
- 33番 地蔵?(弘誓院延命地蔵尊?)
- 35番 天満宮
- 36番 弁財天(弘誓院境内)
- 37番 熊野三社(熊野神社)
この4ヶ所を発見しました。連番で固まっているとすれば、34番もありそうな気がします。
次回は、上柳戸(柳戸)の大野鯖大師(掛所)&下柳戸(柳戸)の阿弥陀堂(40番)
次回は、上柳戸(柳戸)の大野鯖大師(掛所)、続けて、下柳戸(柳戸)の阿弥陀堂(40番)に参ります。熊野神社の前の道を左(南東)に出て、坂を上ります。