(令和4年2月5日その2)
吉橋組大師巡拝、威光院(6番)&薬師堂(75番)の次は、東福院(22番&50番)です。
新川の西岸を南下し、桑納川との合流点から約550m進みます。(…余談ながら、新川の上流は利根川・印旛沼で下流は花見川・東京湾だそうで、でも通常の水の流れは逆なので、左岸・右岸の記述は止めました。…)そこから右(西)を見ると、道の先、家一軒分右に東福院の屋根が見えます。右折して進み、突き当りを右折すると、左手に東福院です。
東福院
真言宗豊山派、東福院、八千代市麦丸1299番地。(千葉県の宗教法人名簿より)
下総四郡大師22番。吉橋組大師22番&50番。こちらの入口からですと、入って左に「やすらぎの家」という集会所のようなものがあり、さらに進むと、右に本堂、左に山門、奥に仏堂や大師堂があります。この縁起によれば、東福院は、山号は医眼山で、宝暦3年(1753年)に貞福寺(20番)の長慶住職が開基したということです。
山門
いったん、山門から外に出てみます。
標識塔
山門の右前に、標識塔が2本あります。山門から遠い方で、やや背の低い方が、22番標識塔です。22番標識塔左面「四國廿二番阿州白水山醫王院平等寺寫」、右面「文化四丁卯天八月吉辰千葉郡〓丸村東福院」(文化4年=1807年。〓は麦でしょう。)
もう一方は、正面「文政十三庚寅年七月」(文政13年=1830年)、左面には40番観自在寺と41番が刻まれており、40番&41番標識塔といえます。後者の存在は、下総四郡大師が分裂後、吉橋組大師が再編される過程を窺わせるものです。なお、天保期までには、40番札所は正福寺(11番&40番)に、41番札所は高幢庵庵坊(41番)に、各々移転しています。
仏堂
22番&50番大師堂
次回は城橋大師堂(66番)と不動堂(72番)
次回は、城橋大師堂(66番)を経由して、不動堂(72番)まで参ります。道を新川まで戻って、新川の西岸を南へ進みます。